梅千代の創作物の保管庫です。
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◆
僕の家に木下出雲がやって来たのはシモンが帰国して半月ほど経ってからだった。
「やあ、珍しいね」
「まぁーな。邪魔するぞ」
出雲は鼻と頬を赤くして寒さに身を縮めながら僕の家に上がり込んだ。襟巻きに顔が半分埋まっている。幼馴染みであるが故勝手を知っている仲であるだけに彼は遠慮せず一直線に囲炉裏へ向かった。
「うーん、凍みるな」
「ははは。今日はどうしたんだよ」
僕も隣に座り込む。ぱちん、ぱち、と炭が燃える音が、部屋にやけに響いた。
出雲と僕は幼馴染みであるとはいえ、幕府内で所属している派閥(本当は面倒だから入りたくないのだが)は別個だ。会話さえお互いに憚る事が多かった。
出雲はあー、うーんなんて長いこと唸った後、ようやっと本題に入った。
「口止めされてたんだけどな」
「うん」
「シモンさんお前がやらかした事全部知ってたぞ」
出雲からその話が出た事にむしろ僕は驚いた。シモンには「知っている」と別れ際に言われた事だ。出雲が知っているということはきっとシモンは彼に頼んで、あの時何があったのか知ったのだろう。
その事なら知ってるよ、そう答えると出雲は鼻白んだ。
「何だよ!折角…意を決して伝えに来たって言うのに!!」
「すまないな。でもまあ、出雲が此処へ足を運んでくれた理由になったから嬉しいよ」
出雲は僕の言葉を聞くと具合悪そうにして頬を赤くした。照れ屋なのだ。
暖まってきたのもあるのか、出雲は襟巻きを外すとごろんと寝っ転がった。久しぶりでも家に来てこんなに和んでくれるというのはやはり少し嬉しい。出雲の方はあまり僕を好いていないようだから。
ぱちんぱちん…、囲炉裏の火の音は夜の静けさへと吸い込まれていく。雪こそ降ってはいないが今夜は随分と冷える。隙間風がひゅうと抜けていった。出雲がさっきまであんなに縮こまっていたのもわかる気がした。
出雲はぼそりと呟いた。
「口に蜜あり腹に剣ありってか…」
「ん?どうした」
「何でもねえよ御人好しの蜂蜜野郎」
「意味がわからないが理不尽だな…」
今度は外でびゅうと一際強い風が吹き、戸を殴り付けていった。
幾らかの舞い上がった細かな埃が光を受けてらしくなく美しく煌めいた。
「…おためごかしはあまり好かんってさ」
囲炉裏の火を見つめて出雲は言った。
「誰が?」
「ミスターシモン」
「ああ」
だろうね、と笑ってみせる。出雲は何か言い含められたのだろうか。
くすくす笑い続ける僕に出雲は憮然としてみせた。
「なーんか、いっつもお前にゃあ敵わなくて腹立たしいわ」
僕は出雲のその言葉を聞くと益々可笑しくなって思い切り笑ってしまった。ぶすっとむくれた出雲はまだ僕らが幼かった頃を彷彿とさせた。
「出雲は良い奴だな、本当に」
「お前に言われっと苛々する、本当に」
ふん、と鼻を鳴らして出雲は顔を背けた。赤くなっている耳を見ると、やはり笑えてしまう。
お互い黙り、暫くすると規則正しい呼吸が聞こえた。他人の家なのに、出雲はそのまま寝入ってしまったようだった。
何人もの功労者のお陰で旧幕府は潰れ、新政府が発足、沢山の人の努力によって国の仕組みが組み替えられていった。
戦いが起きた。人がたくさん、たくさん死んだ。
そんな激動の時代の中、僕はなんとか生き残った。
外国人が国内を歩き回るのももう珍しくはない。国民はあれほど嫌っていた海外の知識を積極的に受け入れ始めた。
渡航の禁止も解け僕も英国へと行く事が出来るようになったが……仕事もあって行かなかった。むしろ、仕事を理由に行くことをやめた。
何通か交わした手紙によるとシモンの方も英国の政治に忙殺されているらしい。彼はあれ程の親日家でありながら別れてから一度も日本の土を踏んでいない。
僕はそれにも安堵した。安堵した事に対する嫌悪には気付かないふりをした。
シモンはきっと私を赦してくれている。いつでもおいでと言ってくれた。だが、だからといって僕はのうのうと彼の家へと向かって良いのだろうか?
心の中で、何度も問いを反芻する。
そして何故自分が彼の元へ行けないのかがわかった。
彼が「僕がやったことを知って」いて「それを赦してくれている」からこそ行けないのだ。羞恥心が僕を赦さない。僕が、僕を…赦さない。
そうして無為に日々を過ごしている時の事だった。
「修一」
呼ばれて振り返ると出雲が此方へ歩み寄って来ているところだった。新築の西洋式の仕事場の床がカツコツと革靴の音をよく響かせている。彼の髪型や、服が洋装になったのにも漸く見慣れてきた。
幕府が潰れたお陰で以前のような派閥争いに因るいざこざはある程度収まり、出雲とはいつかの様に話し合う仲になっていた。
彼も英語が堪能である為、仕事をよく共にする。これも関係改善の一因であろう。
「なんだ?呑みにでも行くか」
「いや、今日はそうではなくだな」
出雲は頭を掻きながら問う。
「英吉利に――なんでお前が行かないんだ」
ずばり言われ過ぎて一瞬静止してしまった。
今度、政府の一部の人間は英国へと視察に行く事が決定していた。僕は、その人員に立候補出来なかったのだ。
内心狼狽えながらも、僕は静かに答えた。
「…出雲だって行きたがってたじゃあないか。あれだけいれば人数は十分だ」
「脳味噌は足りねえよ。語学力もな。それにもう一人位融通は利く。今からでも言って来い」
出雲は迫るように言ってきた。僕は一歩身を引いてしまった。
「修一」
固い声で出雲は僕の名を呼ぶ。
「お前は反省することと逃げることを履き違えている」
「!!」
ぴしゃり、と言い放たれた。自分の顔が歪むのが鏡を前にしなくともわかった。
出雲はそんな僕を見てフン、と鼻を鳴らした。
「賢くいらっしゃる幸田修一殿が、結果を予測して無かった訳でも無いだろう。来るべき結果を含めてそれでも判断したんだろう。だったら情けねえ面してないで胸を張れ。どうせ勝手に責任感じて怖じ気づいてるんだろう馬鹿者めが」
かつてないほどこき下ろされ、僕は怒りも感じず呆けてしまった。
出雲の目は至って真面目だった。
「行け。さもなければ後悔する」
少し迷いに震えてしまったが、押し切られるようにして僕は曖昧に頷いた。
英国の冬は日本より温暖であるようで、外套一つで無理なく過ごすことが出来た。
国を渡ると、まだまだ自国が遅れをとっていることを痛感する。盗みとれる知識は町のそこかしこに溢れかえっていたが、しかし、僕はそれらに目を向けることに集中出来ていなかった。
「幸田殿」
出雲に目で注意されるほど散々な状態らしい。ため息が漏れ、乾いた風に白く流れていった。
その時だった。
町中を行き交う、とある人の会話の中に僕は懐かしい、あの言葉を耳にした。
『自分で調べてごらん』
シモンがそう言った、言葉。
団体からはぐれてしまうのも構わず、僕はその人を追った。駆けていって、肩を叩く。
「失敬、今の言葉の意味なのですが…」
質問した人には物凄い不審の目を向けられつつも、教えて貰うことが出来た。
そして、思った。
なんて――なんて下らない。
「は、はははは…」
僕は雑踏の中、力なく笑った。じろじろと不躾な視線がこちらに向けられるが構わず僕は笑った。
シモンが来日していた頃から日本は成長した。表向き身分制度は崩壊したし、武士は刀を持たなくなった。幕府は潰れ、明治政府が発足して…だからもう、僕は昔ほど英国を羨望の眼差しで見なくなった。
シモンは国を否定するけど私は日本人で、自国を愛していて、英国は日本では無いから。
だから、
「これはもう、使わないな…」
というか使えない。私は闇色の虹彩だから。逆に言葉を作ってみようか?それだと卑怯という意味になってしまうかな。
意味もなく考えると同時に、ぶわっと迫ってくるようにシモンとのあれこれが思い出された。
師であり友であるその人。僕を呼ぶと珈琲を淹れてくれた。解らないことを丁寧に教えてくれた。屈託なく僕に笑いかけてくれていた。
シモンの言葉をいつしか信じられなくなったのは僕が一方的に苦悩していただけなのだ。
ああ、下らない。本当に下らない!
あの人は最後まで僕を信頼してくれていたのだから。だから、僕の小賢しい行動を知っても変わらないでいてくれた。
羞恥心がなんだって。それは僕の都合だ。
『お前は反省することと逃げることを履き違えている』
…出雲、僕も君には敵わないって思うよ。
「修一!何をしているんだ、行くぞ…!」
遠くで僕を呼ぶ出雲がはっと息を止めたのがわかった。
――大丈夫、会える。
瞳が潤んだけれど笑みが浮かんだ。
だって僕の師に、本当に正解かどうか訊かなくてはなるまい。
僕がまた一つ出来るようになったら彼は喜ぶのかな。それとも子供みたいに悔しがるのだろうか。
どちらにせよまた笑顔で珈琲を淹れてくれるに違いない。
僕はシモンを、シモンの言葉を信じよう。
すまない今行く、と僕は出雲に手を振った。
"green-eyed monster"
それは"嫉妬"。
さぁ、嫉妬深い緑の目をした親日天狗に会いに行こう。
—————
長々おつきあい感謝です><
矛盾点、稚拙な所は毎度ながら目を瞑ってやってください…
僕の家に木下出雲がやって来たのはシモンが帰国して半月ほど経ってからだった。
「やあ、珍しいね」
「まぁーな。邪魔するぞ」
出雲は鼻と頬を赤くして寒さに身を縮めながら僕の家に上がり込んだ。襟巻きに顔が半分埋まっている。幼馴染みであるが故勝手を知っている仲であるだけに彼は遠慮せず一直線に囲炉裏へ向かった。
「うーん、凍みるな」
「ははは。今日はどうしたんだよ」
僕も隣に座り込む。ぱちん、ぱち、と炭が燃える音が、部屋にやけに響いた。
出雲と僕は幼馴染みであるとはいえ、幕府内で所属している派閥(本当は面倒だから入りたくないのだが)は別個だ。会話さえお互いに憚る事が多かった。
出雲はあー、うーんなんて長いこと唸った後、ようやっと本題に入った。
「口止めされてたんだけどな」
「うん」
「シモンさんお前がやらかした事全部知ってたぞ」
出雲からその話が出た事にむしろ僕は驚いた。シモンには「知っている」と別れ際に言われた事だ。出雲が知っているということはきっとシモンは彼に頼んで、あの時何があったのか知ったのだろう。
その事なら知ってるよ、そう答えると出雲は鼻白んだ。
「何だよ!折角…意を決して伝えに来たって言うのに!!」
「すまないな。でもまあ、出雲が此処へ足を運んでくれた理由になったから嬉しいよ」
出雲は僕の言葉を聞くと具合悪そうにして頬を赤くした。照れ屋なのだ。
暖まってきたのもあるのか、出雲は襟巻きを外すとごろんと寝っ転がった。久しぶりでも家に来てこんなに和んでくれるというのはやはり少し嬉しい。出雲の方はあまり僕を好いていないようだから。
ぱちんぱちん…、囲炉裏の火の音は夜の静けさへと吸い込まれていく。雪こそ降ってはいないが今夜は随分と冷える。隙間風がひゅうと抜けていった。出雲がさっきまであんなに縮こまっていたのもわかる気がした。
出雲はぼそりと呟いた。
「口に蜜あり腹に剣ありってか…」
「ん?どうした」
「何でもねえよ御人好しの蜂蜜野郎」
「意味がわからないが理不尽だな…」
今度は外でびゅうと一際強い風が吹き、戸を殴り付けていった。
幾らかの舞い上がった細かな埃が光を受けてらしくなく美しく煌めいた。
「…おためごかしはあまり好かんってさ」
囲炉裏の火を見つめて出雲は言った。
「誰が?」
「ミスターシモン」
「ああ」
だろうね、と笑ってみせる。出雲は何か言い含められたのだろうか。
くすくす笑い続ける僕に出雲は憮然としてみせた。
「なーんか、いっつもお前にゃあ敵わなくて腹立たしいわ」
僕は出雲のその言葉を聞くと益々可笑しくなって思い切り笑ってしまった。ぶすっとむくれた出雲はまだ僕らが幼かった頃を彷彿とさせた。
「出雲は良い奴だな、本当に」
「お前に言われっと苛々する、本当に」
ふん、と鼻を鳴らして出雲は顔を背けた。赤くなっている耳を見ると、やはり笑えてしまう。
お互い黙り、暫くすると規則正しい呼吸が聞こえた。他人の家なのに、出雲はそのまま寝入ってしまったようだった。
何人もの功労者のお陰で旧幕府は潰れ、新政府が発足、沢山の人の努力によって国の仕組みが組み替えられていった。
戦いが起きた。人がたくさん、たくさん死んだ。
そんな激動の時代の中、僕はなんとか生き残った。
外国人が国内を歩き回るのももう珍しくはない。国民はあれほど嫌っていた海外の知識を積極的に受け入れ始めた。
渡航の禁止も解け僕も英国へと行く事が出来るようになったが……仕事もあって行かなかった。むしろ、仕事を理由に行くことをやめた。
何通か交わした手紙によるとシモンの方も英国の政治に忙殺されているらしい。彼はあれ程の親日家でありながら別れてから一度も日本の土を踏んでいない。
僕はそれにも安堵した。安堵した事に対する嫌悪には気付かないふりをした。
シモンはきっと私を赦してくれている。いつでもおいでと言ってくれた。だが、だからといって僕はのうのうと彼の家へと向かって良いのだろうか?
心の中で、何度も問いを反芻する。
そして何故自分が彼の元へ行けないのかがわかった。
彼が「僕がやったことを知って」いて「それを赦してくれている」からこそ行けないのだ。羞恥心が僕を赦さない。僕が、僕を…赦さない。
そうして無為に日々を過ごしている時の事だった。
「修一」
呼ばれて振り返ると出雲が此方へ歩み寄って来ているところだった。新築の西洋式の仕事場の床がカツコツと革靴の音をよく響かせている。彼の髪型や、服が洋装になったのにも漸く見慣れてきた。
幕府が潰れたお陰で以前のような派閥争いに因るいざこざはある程度収まり、出雲とはいつかの様に話し合う仲になっていた。
彼も英語が堪能である為、仕事をよく共にする。これも関係改善の一因であろう。
「なんだ?呑みにでも行くか」
「いや、今日はそうではなくだな」
出雲は頭を掻きながら問う。
「英吉利に――なんでお前が行かないんだ」
ずばり言われ過ぎて一瞬静止してしまった。
今度、政府の一部の人間は英国へと視察に行く事が決定していた。僕は、その人員に立候補出来なかったのだ。
内心狼狽えながらも、僕は静かに答えた。
「…出雲だって行きたがってたじゃあないか。あれだけいれば人数は十分だ」
「脳味噌は足りねえよ。語学力もな。それにもう一人位融通は利く。今からでも言って来い」
出雲は迫るように言ってきた。僕は一歩身を引いてしまった。
「修一」
固い声で出雲は僕の名を呼ぶ。
「お前は反省することと逃げることを履き違えている」
「!!」
ぴしゃり、と言い放たれた。自分の顔が歪むのが鏡を前にしなくともわかった。
出雲はそんな僕を見てフン、と鼻を鳴らした。
「賢くいらっしゃる幸田修一殿が、結果を予測して無かった訳でも無いだろう。来るべき結果を含めてそれでも判断したんだろう。だったら情けねえ面してないで胸を張れ。どうせ勝手に責任感じて怖じ気づいてるんだろう馬鹿者めが」
かつてないほどこき下ろされ、僕は怒りも感じず呆けてしまった。
出雲の目は至って真面目だった。
「行け。さもなければ後悔する」
少し迷いに震えてしまったが、押し切られるようにして僕は曖昧に頷いた。
英国の冬は日本より温暖であるようで、外套一つで無理なく過ごすことが出来た。
国を渡ると、まだまだ自国が遅れをとっていることを痛感する。盗みとれる知識は町のそこかしこに溢れかえっていたが、しかし、僕はそれらに目を向けることに集中出来ていなかった。
「幸田殿」
出雲に目で注意されるほど散々な状態らしい。ため息が漏れ、乾いた風に白く流れていった。
その時だった。
町中を行き交う、とある人の会話の中に僕は懐かしい、あの言葉を耳にした。
『自分で調べてごらん』
シモンがそう言った、言葉。
団体からはぐれてしまうのも構わず、僕はその人を追った。駆けていって、肩を叩く。
「失敬、今の言葉の意味なのですが…」
質問した人には物凄い不審の目を向けられつつも、教えて貰うことが出来た。
そして、思った。
なんて――なんて下らない。
「は、はははは…」
僕は雑踏の中、力なく笑った。じろじろと不躾な視線がこちらに向けられるが構わず僕は笑った。
シモンが来日していた頃から日本は成長した。表向き身分制度は崩壊したし、武士は刀を持たなくなった。幕府は潰れ、明治政府が発足して…だからもう、僕は昔ほど英国を羨望の眼差しで見なくなった。
シモンは国を否定するけど私は日本人で、自国を愛していて、英国は日本では無いから。
だから、
「これはもう、使わないな…」
というか使えない。私は闇色の虹彩だから。逆に言葉を作ってみようか?それだと卑怯という意味になってしまうかな。
意味もなく考えると同時に、ぶわっと迫ってくるようにシモンとのあれこれが思い出された。
師であり友であるその人。僕を呼ぶと珈琲を淹れてくれた。解らないことを丁寧に教えてくれた。屈託なく僕に笑いかけてくれていた。
シモンの言葉をいつしか信じられなくなったのは僕が一方的に苦悩していただけなのだ。
ああ、下らない。本当に下らない!
あの人は最後まで僕を信頼してくれていたのだから。だから、僕の小賢しい行動を知っても変わらないでいてくれた。
羞恥心がなんだって。それは僕の都合だ。
『お前は反省することと逃げることを履き違えている』
…出雲、僕も君には敵わないって思うよ。
「修一!何をしているんだ、行くぞ…!」
遠くで僕を呼ぶ出雲がはっと息を止めたのがわかった。
――大丈夫、会える。
瞳が潤んだけれど笑みが浮かんだ。
だって僕の師に、本当に正解かどうか訊かなくてはなるまい。
僕がまた一つ出来るようになったら彼は喜ぶのかな。それとも子供みたいに悔しがるのだろうか。
どちらにせよまた笑顔で珈琲を淹れてくれるに違いない。
僕はシモンを、シモンの言葉を信じよう。
すまない今行く、と僕は出雲に手を振った。
"green-eyed monster"
それは"嫉妬"。
さぁ、嫉妬深い緑の目をした親日天狗に会いに行こう。
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◆
「もし、君に不利益が生じたならば、この人に石を投げなさい」
お侍様は私に向かってそう仰いました。『この人』というのは貴方の事を指していました。
私はどうして彼が私にそう命じたのか解らず、戸惑ってお返事が出来ませんでした。そんな私にお侍様は焦れた様子で、君の為なんだと仰いました。
「諸事情あって、私は君を殴ることになるかもしれない。少しの間、辛いことがあると思う。でも信じてくれ」
お侍様の目は真剣でした。
そして不意にお侍様の視線が私から外されました。
「! くそっ」
私もつられて彼の視線を追いました。――私の村の子が駆けていくのが見えました。
お侍様は私を振り返ると念を押すようにもう一度仰いました。
「いいね、石を投げるんだ…」
◆
「本当にそう、彼は言ったのかい?」
私はあの時の少女に、キノシタを通して尋ねた。少女はそれに答えてこくり、と頷く。キノシタは話を間で聞いて、眉をひそめて何か考えている様だった。
そうだったのか、と私はぼそりと呟いた。
今日、私はシュウには休みと言って追い払い、内緒でキノシタ――彼もまた政府の者だ――に通訳を頼み少女に謝罪をしていた。私があの村に足を運ぶとまた厄介事を起こしてしまいそうだったので、人に頼んで彼女を私の住まわせて貰っている家に連れてきて貰ったのだった。
彼女はいつかの様に、むしろそれ以上に怯えた様子で、しかし私の質問にしっかりと答えてくれた。
事の子細を聞いて、漸く私は合点がいった。
シュウがあの時――私が石礫を投げつけられた時、あんなに辛そうにしていた事が私は引っ掛かっていたのだ。どう考えても、あれは何かを背負い込んでしまった者が浮かべる表情だった。
その後私と話している時も、古傷の痛みに耐えるような表情を度々浮かべていた。それも、私の疑問が助長された理由だった。
全く…と自然にため息が出た。自己嫌悪にも陥った。私は、私が好き勝手やらかした後処理を知らないとはいえ全てシュウに押し付けてしまっていたのだ。先生気取りで暢気なことだ。
私は少女に向き直ると今度は自分の口で謝った。
「すみませんでシタ」
ぺこりと頭を下げる。
少女ははっとした顔をして、目を見開いた。彼女の瞳から、ぽろぽろと涙が溢れた。
突然の事に私が焦っていると、少女が逆に言った。
――謝るのは私の方です。
――村の人に疎まれるのが恐ろしくて、貴方と出会った事を憎んで、石を投げてしまいました。
――本当になんと謝れば良いか…!
尚泣き続ける少女に、私はいつの間にか手を伸ばしてその頭を撫でていた。
少女は少し震え、暫く固まっていたが、またぽろぽろと涙を溢して静かに泣いた。
しかし次の瞬間、彼女はぐうと歯を食いしばると私を真っ直ぐに見上げた。
――今は、貴方に出会えた事、幸福に思っています…。
キノシタは最後にそう訳して伝えてくれた。
国として、団体の中の一人ではなく、個人として彼女に繋がれた事に私は喜びを感じた。そして少女の異邦人に差別を行わない柔軟さと強かさに、この国、日本の未来に希望を見出だせた気がした。
「ミスターシモン」
少女が帰ってから、キノシタは眉根をよせて話しかけてきた。僕はグラスに水を注ぎながらなんだい、と聞き返す。
「今回の事、このままにしておいて良いのですか!?コウダシュウイチはあんな小娘の為に貴方を危険にさらしたのですよ!」
聞きながら水を飲み下す。私は彼の言い方に不快感を抱いた。
キノシタは訴えるかのように話している。私は彼の言葉はあまり聞かず、その表情だけを横目に見た。どこか嬉しがっているようだった。高揚が隠しきれていないのだ。
もしも私がこの事を問題にしたら日本に不利な状況になり、ただでさえ危うい事態が更に悪化することは明白である。どうやら彼はシュウの足を引っ張ろうとしているようだ。日本国内の派閥争いや小競り合いに興味が無いわけでは無いが、私には正直そんなことはどうでも良い。
水を一気にあおるとグラスをテーブルに置き、私はキノシタの言葉を遮って言った。
「私はシュウの決断を誇りに思っているよ」
キノシタは話すのを止めた。
私は少女の会話を思い返し、出来事を整理してみた。
シュウは確かに、一人の少女の為に私を利用した。『異国人』で『来賓』で『友人』の私を使って『日本人』で『身分の低い』『見ず知らず』の少女を助けた。話を聞いていて、最初私はシュウに売られたのかと思った。シュウにとって私は疎ましい存在なのかとさえ悩んだ。
しかしシュウの行動はあまりにも無謀すぎるのだ。
若しも、石を投げつけられたのが私でなかったら、親日家で無かったならば国際問題にも発展していたかもしれない。
そしてシュウにそれが解らない訳がない。
つまり、彼は私を見込んで、私だから、私をよく知っているからあの様な策に出たのだ。
私を信じて。
「――全く、食えん男だよ」
前にも言ったが、私が石をぶつけられるのは一瞬でも、もしそれが無かったら少女が苛められるのは随分長くなっていたかもしれない。彼の行動は特に彼にとって非合理なのだ。
きっと私が怒らない事も見越しているんじゃないかなぁ?そう笑うとキノシタは黙ったまま俯いた。
「キノシタ、……私はおためごかしはあまり好きじゃないよ」
加えてそう言うとキノシタの耳がうっすらと紅潮した。その反応を見て、この人も悪い奴じゃ無いんだよなぁ、と私は苦笑した。
ねぇ……だから、シュウ。
君はそんなに気負わなくて良いんだ。罪悪感なんて感じないで良いんだよ。
別れの時、涙を流しながら日本語で何かを訴える彼を前に、私はそう思っていた。随分長くここには留まったから、拾えた単語からシュウが紅葉狩りの時の出来事を詫びているのは何となく知れた。ちょっと読みが外れたかな、やっぱり彼は真面目過ぎる。
「知ってるよ」
小さな声で、しかも汽笛の音が暴れる中で言ったのにちゃんと届いたみたいだ。呆然自失といった風にシュウは私を見た。
人間ってのはスゴいね。というか、国とか人種とか私たちが勝手に決めつけちゃってるだけでやっぱり人間は人間で一つなんだ、きっと。だからこうして伝わっちゃうんだよ。
この国はちょっと寒いし、私はそろそろ行くことにするよ。
「それじゃあまたね!!」
「もし、君に不利益が生じたならば、この人に石を投げなさい」
お侍様は私に向かってそう仰いました。『この人』というのは貴方の事を指していました。
私はどうして彼が私にそう命じたのか解らず、戸惑ってお返事が出来ませんでした。そんな私にお侍様は焦れた様子で、君の為なんだと仰いました。
「諸事情あって、私は君を殴ることになるかもしれない。少しの間、辛いことがあると思う。でも信じてくれ」
お侍様の目は真剣でした。
そして不意にお侍様の視線が私から外されました。
「! くそっ」
私もつられて彼の視線を追いました。――私の村の子が駆けていくのが見えました。
お侍様は私を振り返ると念を押すようにもう一度仰いました。
「いいね、石を投げるんだ…」
◆
「本当にそう、彼は言ったのかい?」
私はあの時の少女に、キノシタを通して尋ねた。少女はそれに答えてこくり、と頷く。キノシタは話を間で聞いて、眉をひそめて何か考えている様だった。
そうだったのか、と私はぼそりと呟いた。
今日、私はシュウには休みと言って追い払い、内緒でキノシタ――彼もまた政府の者だ――に通訳を頼み少女に謝罪をしていた。私があの村に足を運ぶとまた厄介事を起こしてしまいそうだったので、人に頼んで彼女を私の住まわせて貰っている家に連れてきて貰ったのだった。
彼女はいつかの様に、むしろそれ以上に怯えた様子で、しかし私の質問にしっかりと答えてくれた。
事の子細を聞いて、漸く私は合点がいった。
シュウがあの時――私が石礫を投げつけられた時、あんなに辛そうにしていた事が私は引っ掛かっていたのだ。どう考えても、あれは何かを背負い込んでしまった者が浮かべる表情だった。
その後私と話している時も、古傷の痛みに耐えるような表情を度々浮かべていた。それも、私の疑問が助長された理由だった。
全く…と自然にため息が出た。自己嫌悪にも陥った。私は、私が好き勝手やらかした後処理を知らないとはいえ全てシュウに押し付けてしまっていたのだ。先生気取りで暢気なことだ。
私は少女に向き直ると今度は自分の口で謝った。
「すみませんでシタ」
ぺこりと頭を下げる。
少女ははっとした顔をして、目を見開いた。彼女の瞳から、ぽろぽろと涙が溢れた。
突然の事に私が焦っていると、少女が逆に言った。
――謝るのは私の方です。
――村の人に疎まれるのが恐ろしくて、貴方と出会った事を憎んで、石を投げてしまいました。
――本当になんと謝れば良いか…!
尚泣き続ける少女に、私はいつの間にか手を伸ばしてその頭を撫でていた。
少女は少し震え、暫く固まっていたが、またぽろぽろと涙を溢して静かに泣いた。
しかし次の瞬間、彼女はぐうと歯を食いしばると私を真っ直ぐに見上げた。
――今は、貴方に出会えた事、幸福に思っています…。
キノシタは最後にそう訳して伝えてくれた。
国として、団体の中の一人ではなく、個人として彼女に繋がれた事に私は喜びを感じた。そして少女の異邦人に差別を行わない柔軟さと強かさに、この国、日本の未来に希望を見出だせた気がした。
「ミスターシモン」
少女が帰ってから、キノシタは眉根をよせて話しかけてきた。僕はグラスに水を注ぎながらなんだい、と聞き返す。
「今回の事、このままにしておいて良いのですか!?コウダシュウイチはあんな小娘の為に貴方を危険にさらしたのですよ!」
聞きながら水を飲み下す。私は彼の言い方に不快感を抱いた。
キノシタは訴えるかのように話している。私は彼の言葉はあまり聞かず、その表情だけを横目に見た。どこか嬉しがっているようだった。高揚が隠しきれていないのだ。
もしも私がこの事を問題にしたら日本に不利な状況になり、ただでさえ危うい事態が更に悪化することは明白である。どうやら彼はシュウの足を引っ張ろうとしているようだ。日本国内の派閥争いや小競り合いに興味が無いわけでは無いが、私には正直そんなことはどうでも良い。
水を一気にあおるとグラスをテーブルに置き、私はキノシタの言葉を遮って言った。
「私はシュウの決断を誇りに思っているよ」
キノシタは話すのを止めた。
私は少女の会話を思い返し、出来事を整理してみた。
シュウは確かに、一人の少女の為に私を利用した。『異国人』で『来賓』で『友人』の私を使って『日本人』で『身分の低い』『見ず知らず』の少女を助けた。話を聞いていて、最初私はシュウに売られたのかと思った。シュウにとって私は疎ましい存在なのかとさえ悩んだ。
しかしシュウの行動はあまりにも無謀すぎるのだ。
若しも、石を投げつけられたのが私でなかったら、親日家で無かったならば国際問題にも発展していたかもしれない。
そしてシュウにそれが解らない訳がない。
つまり、彼は私を見込んで、私だから、私をよく知っているからあの様な策に出たのだ。
私を信じて。
「――全く、食えん男だよ」
前にも言ったが、私が石をぶつけられるのは一瞬でも、もしそれが無かったら少女が苛められるのは随分長くなっていたかもしれない。彼の行動は特に彼にとって非合理なのだ。
きっと私が怒らない事も見越しているんじゃないかなぁ?そう笑うとキノシタは黙ったまま俯いた。
「キノシタ、……私はおためごかしはあまり好きじゃないよ」
加えてそう言うとキノシタの耳がうっすらと紅潮した。その反応を見て、この人も悪い奴じゃ無いんだよなぁ、と私は苦笑した。
ねぇ……だから、シュウ。
君はそんなに気負わなくて良いんだ。罪悪感なんて感じないで良いんだよ。
別れの時、涙を流しながら日本語で何かを訴える彼を前に、私はそう思っていた。随分長くここには留まったから、拾えた単語からシュウが紅葉狩りの時の出来事を詫びているのは何となく知れた。ちょっと読みが外れたかな、やっぱり彼は真面目過ぎる。
「知ってるよ」
小さな声で、しかも汽笛の音が暴れる中で言ったのにちゃんと届いたみたいだ。呆然自失といった風にシュウは私を見た。
人間ってのはスゴいね。というか、国とか人種とか私たちが勝手に決めつけちゃってるだけでやっぱり人間は人間で一つなんだ、きっと。だからこうして伝わっちゃうんだよ。
この国はちょっと寒いし、私はそろそろ行くことにするよ。
「それじゃあまたね!!」
僕は自分の分の珈琲に口をつけた。シモンが手ずから淹れてくれたものだが、実を言うと僕はこれをあまり好かない。舌が慣れてない所為かもしれない。
シモンに与えられた家は、日本家屋に無理矢理西洋家具が突っ込んであり混沌としている。身の回りの物は新品ばかりだけれど、本だけはシモンの愛蔵品をそのまま運んで来た為に古いようだった。
珈琲の薫り、古い本の薫り、インクの薫り、新しい家の薫り、混じりあってぐちゃぐちゃなのにどこかほっとするのは何故だろうか。
「ああでも、やっぱりシュウは良いな」
シモンも珈琲を一口飲んで、香ばしい息と一緒に懲りずに言った。僕はもう苦笑いをすることしか出来なかった。
「そういうのを日本では"隣の芝生は青く見える"って言うんですよ」
説明を交えつつ僕はまた慣用表現を口にした。シモンはふむふむ、と興味深げに頷いてみせた。そして彼は一瞬の間の後ににやりと不敵に笑った。
「ま、私は緑の目をした怪物だからね!」
彼はがおー!!と指を鉤爪のように曲げて獣が襲いかかるようなふりをしてみせた。突然彼が動き出したので、僕は驚いて身を引いてしまった。
怪物?彼が?
彼は一体どういう意味でそう言ってくるのだろう。
「……怪物だなんて言わないで下さい」
僕が、珍しく彼が自嘲的になっているのかと少し切なくなって諭すと、逆に変な顔をされてしまった。それからシモンは凄く嬉しそうな顔になって、
「その反応はこのジョークの意味が解ってないな!」
と笑った。
「え…ええ?」
今度は僕が間抜け顔をする番だ。
「イエスッ!!やったー!!やっとシュウが知らない言い回しを見つけたよ!シュウってば語学勉強中とか言いながら全然ミスしてくれないんだもん!」
褒められているのか貶されているのか。取り敢えず、揚げ足をとられて良い気はしない。内心憤然としながら、僕はどういう意味なのか尋ねた。
「これはね――」
シモンは言いかけて、やめた。
あ、凄く嫌な笑い方をしている。
「…なんでも知らない事を教えるだけじゃ駄目だよね!確か、孔子もそんな事言ってたしね」
孔子の名前が出てきた事に驚きつつ、それは少し意味が違うんじゃないかと思いつつ。
「自分で頑張って調べてごらん」
シモンはニヤリと笑った。
隠しきれずむくれる私を見て、シモンは更に呵呵大笑した。彼は悪戯っ子の様な目をして、わかったら使ってごらんよ、と笑い過ぎて逆に苦しそうにしながら言った。
辞書に載っている語彙が少ないのか、シモンの言葉が珍し過ぎるのか。僕はシモンの冗談の答えを見つけ出す事が出来なかった。やきもきしている僕を見て、シモンは本当に嬉しそうな顔をする。彼は良い趣味の持ち主のようだ。……はぁ。
その後暫く彼への対応が少し雑になった気がするが、身から出た錆と言うやつだ。シモンも僕に大して少々やり過ぎたと思ったのか、ある日三日間の暇をくれた。無論僕はその間二度と揚げ足をとられぬよう一層英語の勉強に励んだのだが。
しかし答えは解らないまま月日は過ぎ、僕の方ももうそんな冗談だか成句だかはどうでもよくなっていった。
ただ……流れる月日の中でも、消えないしこりが一つだけあった。それはやはりあの、秋の紅葉狩りの時の事件。
実はシモンと過ごしている時、僕は何度も、本当にあれで良かったのだろうかと迷ってしまっていた。尊敬する師に対して、一人の人間として、あの時の判断は、本当に合っていたのか。もっと良い方法があったのではないか。このまま彼に笑いかけて貰っていいものなのか。
僕は自分のこの惑いが、シモンに勘づかれてなければ良いと願っていた。
シモンは来日して三年ほど日本に居座った(本当に日本がお気に入りのようだった…視察では済まないのではないだろうか?)。会者定離。出会いに別れは必須であるのだ。彼は大きな、それこそ化け物の様な船に乗って、英国に帰っていく。
雪が吹雪いていた。潮がきつく薫っている。空気もなんだか重くて霧が出来そうなほどだ。海風は差すように冷たい。番傘を持つ手の冷えが痛みに変わっていた。
「君は僕の生徒で友人だからね、いつでも遊びに来てくれよ」
別れ際、彼はそう言って僕に握手を求めた。僕はしっかりと暖かい彼の掌を握りしめて――まだ、迷っていた。きっと彼の心に傷を作っただろう、あの紅葉狩りの真相。
言うべきか、言わざるべきか。迷いで唇が戦慄いた。
幕府の存続も危うい今。世の中が渦の様に乱れ目まぐるしく変わっていく今。明日生きていられるのか確証が持てない――今。
そんな時代に僕と彼は生きている。もう再び会うことが無いかもしれない。これっきりかもしれないのだ。
だから、僕は。
気がつくと僕は日本語で泣きながら捲し立てていた。
あの時の事を全て僕は日本語で吐露した。卑怯者だ、僕は彼の言葉で事実を伝えることが出来なかった。彼の信頼の全てを失ってしまうんじゃないか、そんな事はあの時覚悟した筈なのに恐怖は水嵩を増し僕を飲み込んでしまっていた。
シモンは同情しているような、痛ましいものを見るかの様な目で僕を見ていた。彼は僕の背中を軽くぽんぽんと叩いてくれた。まるで、赤ん坊をあやすかのように。
ボーッと汽笛が大きく鳴る。僕は卑怯者のまま、彼と別れなければならない。
「ミスター、僕は…ッ」
言いかけて、僕は静止した。
シモンは優しく、僕に微笑んでいた。
汽笛がもう一度鳴る。びりびりと響き渡る音の中で、僕の目はシモンの口の動きを捉えた――。
「それじゃあまたね!!」
シモンは荷物を抱えると慌てて船に乗り込んでにっこりと笑って手を振った。
僕は呆然と、港に突っ立っていた。
凍てついた風が頬を刺して過ぎていった。
手を振り返す事が出来なかった。
"I know it."
彼の唇は、確かにそう動いたのだ。
シモンに与えられた家は、日本家屋に無理矢理西洋家具が突っ込んであり混沌としている。身の回りの物は新品ばかりだけれど、本だけはシモンの愛蔵品をそのまま運んで来た為に古いようだった。
珈琲の薫り、古い本の薫り、インクの薫り、新しい家の薫り、混じりあってぐちゃぐちゃなのにどこかほっとするのは何故だろうか。
「ああでも、やっぱりシュウは良いな」
シモンも珈琲を一口飲んで、香ばしい息と一緒に懲りずに言った。僕はもう苦笑いをすることしか出来なかった。
「そういうのを日本では"隣の芝生は青く見える"って言うんですよ」
説明を交えつつ僕はまた慣用表現を口にした。シモンはふむふむ、と興味深げに頷いてみせた。そして彼は一瞬の間の後ににやりと不敵に笑った。
「ま、私は緑の目をした怪物だからね!」
彼はがおー!!と指を鉤爪のように曲げて獣が襲いかかるようなふりをしてみせた。突然彼が動き出したので、僕は驚いて身を引いてしまった。
怪物?彼が?
彼は一体どういう意味でそう言ってくるのだろう。
「……怪物だなんて言わないで下さい」
僕が、珍しく彼が自嘲的になっているのかと少し切なくなって諭すと、逆に変な顔をされてしまった。それからシモンは凄く嬉しそうな顔になって、
「その反応はこのジョークの意味が解ってないな!」
と笑った。
「え…ええ?」
今度は僕が間抜け顔をする番だ。
「イエスッ!!やったー!!やっとシュウが知らない言い回しを見つけたよ!シュウってば語学勉強中とか言いながら全然ミスしてくれないんだもん!」
褒められているのか貶されているのか。取り敢えず、揚げ足をとられて良い気はしない。内心憤然としながら、僕はどういう意味なのか尋ねた。
「これはね――」
シモンは言いかけて、やめた。
あ、凄く嫌な笑い方をしている。
「…なんでも知らない事を教えるだけじゃ駄目だよね!確か、孔子もそんな事言ってたしね」
孔子の名前が出てきた事に驚きつつ、それは少し意味が違うんじゃないかと思いつつ。
「自分で頑張って調べてごらん」
シモンはニヤリと笑った。
隠しきれずむくれる私を見て、シモンは更に呵呵大笑した。彼は悪戯っ子の様な目をして、わかったら使ってごらんよ、と笑い過ぎて逆に苦しそうにしながら言った。
辞書に載っている語彙が少ないのか、シモンの言葉が珍し過ぎるのか。僕はシモンの冗談の答えを見つけ出す事が出来なかった。やきもきしている僕を見て、シモンは本当に嬉しそうな顔をする。彼は良い趣味の持ち主のようだ。……はぁ。
その後暫く彼への対応が少し雑になった気がするが、身から出た錆と言うやつだ。シモンも僕に大して少々やり過ぎたと思ったのか、ある日三日間の暇をくれた。無論僕はその間二度と揚げ足をとられぬよう一層英語の勉強に励んだのだが。
しかし答えは解らないまま月日は過ぎ、僕の方ももうそんな冗談だか成句だかはどうでもよくなっていった。
ただ……流れる月日の中でも、消えないしこりが一つだけあった。それはやはりあの、秋の紅葉狩りの時の事件。
実はシモンと過ごしている時、僕は何度も、本当にあれで良かったのだろうかと迷ってしまっていた。尊敬する師に対して、一人の人間として、あの時の判断は、本当に合っていたのか。もっと良い方法があったのではないか。このまま彼に笑いかけて貰っていいものなのか。
僕は自分のこの惑いが、シモンに勘づかれてなければ良いと願っていた。
シモンは来日して三年ほど日本に居座った(本当に日本がお気に入りのようだった…視察では済まないのではないだろうか?)。会者定離。出会いに別れは必須であるのだ。彼は大きな、それこそ化け物の様な船に乗って、英国に帰っていく。
雪が吹雪いていた。潮がきつく薫っている。空気もなんだか重くて霧が出来そうなほどだ。海風は差すように冷たい。番傘を持つ手の冷えが痛みに変わっていた。
「君は僕の生徒で友人だからね、いつでも遊びに来てくれよ」
別れ際、彼はそう言って僕に握手を求めた。僕はしっかりと暖かい彼の掌を握りしめて――まだ、迷っていた。きっと彼の心に傷を作っただろう、あの紅葉狩りの真相。
言うべきか、言わざるべきか。迷いで唇が戦慄いた。
幕府の存続も危うい今。世の中が渦の様に乱れ目まぐるしく変わっていく今。明日生きていられるのか確証が持てない――今。
そんな時代に僕と彼は生きている。もう再び会うことが無いかもしれない。これっきりかもしれないのだ。
だから、僕は。
気がつくと僕は日本語で泣きながら捲し立てていた。
あの時の事を全て僕は日本語で吐露した。卑怯者だ、僕は彼の言葉で事実を伝えることが出来なかった。彼の信頼の全てを失ってしまうんじゃないか、そんな事はあの時覚悟した筈なのに恐怖は水嵩を増し僕を飲み込んでしまっていた。
シモンは同情しているような、痛ましいものを見るかの様な目で僕を見ていた。彼は僕の背中を軽くぽんぽんと叩いてくれた。まるで、赤ん坊をあやすかのように。
ボーッと汽笛が大きく鳴る。僕は卑怯者のまま、彼と別れなければならない。
「ミスター、僕は…ッ」
言いかけて、僕は静止した。
シモンは優しく、僕に微笑んでいた。
汽笛がもう一度鳴る。びりびりと響き渡る音の中で、僕の目はシモンの口の動きを捉えた――。
「それじゃあまたね!!」
シモンは荷物を抱えると慌てて船に乗り込んでにっこりと笑って手を振った。
僕は呆然と、港に突っ立っていた。
凍てついた風が頬を刺して過ぎていった。
手を振り返す事が出来なかった。
"I know it."
彼の唇は、確かにそう動いたのだ。