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梅千代の創作物の保管庫です。
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『鎹(かすがい)』



近頃は何でも、若くして成熟してしまうモノらしい。どっかのフィギュアスケート選手やプロゴルファーが良い例で、最年少記録は次々と塗り替えられている。記録は塗り替えられる物だとかメディアは特例しか取り沙汰しないだとかと言ってしまえばそれまでだ。しかし、傾向としては否定できないだろう。

…だからと言って、こんな事が予想出来る訳が無い。私は目の前の幼子に意識して笑いかける。うまく笑えているだろうか。

幼児は、私の同級生に抱かれている。ちょうど同級生の片側の腕に体重を乗せる様にして、体を捻って私の方を向いていた。真っ黒な、先入観のない瞳に私が映り込んでいる。出来た人間でない自信がある私は、その目に恐怖や羞恥を感じていた。

案の定、幼子はぐずりだした。

「あはは、泣かれたァ」

同級生は本当に愉快そうに笑い、体を揺らして幼子をあやした。

私はせめて同級生にだけは悟られ無いように、鬱々とした感情を押し込めて苦笑してみせるのだった。





事の始まりはこうだ。

小学校時代に仲の良かった友人、紺野葉菜とコンビニで行き合った。気恥ずかしさに懐かしさが勝って、思わず話し掛けたところ、彼女は2歳くらいの子供を抱いていた。

親戚の子?可愛いね。

普通に考えて流れとしてはこう、尋ねるだろう。私は至極当然だが、従妹の子が遊びに来ている――といった返答を期待していた。

しかし彼女は馬鹿な雀が簡易な罠にうっかりかかった時の様な、嬉しそうな顔をして、さらりと言ってのけたのだった。

――可愛くて、当然だよ。だって私の娘だもの!!

コンビニの空調がぶっ壊れて、私を狙ってブリザードを吹かしてるのかと思った。

なんてこった、同級生は既に出産、若しかしたら結婚という一大イベントをこなしてしまっていたのだ!

一時は放心状態に陥り、コミュニケーションの作法が完全にゲシュタルト崩壊を起こしていたが、現世の時の流れは何せ早い。彼女は何のアクションも起こさない私を器のデカイ奴と良いように解釈してくれた様だった。


至現在。

いつもは人見知りしないのになぁ、と彼女は唇を尖らせた。幼児の睫毛には涙が溜まっていて、それは表面張力だけで辛うじて引っ掛かっている。頬を伝ったかどうかは、顔を葉菜の胸にうずめてしまった為わからなかった。

人見知りをしない、それは結構な事だ、良いお子さんだ。葉菜は私のフォローをしてくれる心算は毛頭無いらしかった。

コンビニのキンキンに冷えた空気の所為だ、頭が痛い。

「い…いつ産んだの…?」
「ん?んーと、高一のクリスマスイブ」

動揺がそろそろ漏れ出してきた私を尻目に、彼女は飄々と答えた。

にへり、と葉菜は弛んだ笑顔を見せる。

「だからね、名前は聖夜って書いて"のえる"っていうのぉ」

「へぇー…そーなんだー可愛いねー」

まさか貴女がフランス生まれのクリスチャンだったなんて気付きませんでした、なんて内心軽く毒づく。

確かその名前はネットで残念な名前にランクインしていた気もするが、それもまた胸の内に留めておいた。学校に入ったとき先生にすんなりとは読んで貰えない名前だな、と思った。

くちゅんっ、と聖夜ちゃんが可愛らしいくしゃみを一つしたのを切っ掛けに、私達は各々の会計を済ませて、何とはなしに一緒に外に出た。

夏の太陽はギラギラと私達を刺す。温度差も相俟って、オーブンに投げ込まれた豚の気分である。私は思わず制服のネクタイを外して、鞄に突っ込んだ。襟首を掴み、パタパタと振って空気を送り込む。

ちろ、と葉菜の視線が私に動いた。

「…制服懐かしいー」

彼女の表情に、後悔といったマイナスの感情は伺えなかった。妊娠、出産。考えれば当然の事だ、日本はアメリカのように、低年齢での出産に前向きではない。

葉菜はスチャ、と携帯を取り出したと思うと、

「これが生まれて2ヶ月の時の写真でー、」
と親バカ丸出しで聖夜ちゃんの写メを見せつけてきた。ふとクラスのヲタい子の口調を思い出す。

『俺の娘フォルダが火を吹くぜ!!』

携帯画面の聖夜ちゃんは今よりもっとふっくらとしていて、もっちりとした掌をこちらに伸ばしていた。何枚も示されたがいずれも笑顔で、撮影者への好意が認められた。そして何故だか、画面の向こうには幸福が質量として存在しているように感じられた。

葉菜と二、三世間話を交わし、彼女の状況を何と無く理解した後私は帰路についた。いやぁ、吃驚することもあるもんだなぁー、と暢気にぷらぷらと歩いた。

しかし、その一時訪れた許容と心の平穏は、一瞬にして粉砕される事となるのだった。





「あら、違うわよ」

帰宅して、台所で洗い物していた母に今日あった事の子細を伝えると、キョトンとした顔で此方を振り向いた。リビングのソファに膝を抱えて座り込んでいる私も、多分同じ顔をしているのだと思う。

ざぁざぁ、水の流れる音に若干不安になると、母はまた汚れた食器に向かい合った。葉菜と聖夜ちゃんの話をしている時に気付いたのだが、母は少し前からその話を知っていた様だ。私に話さなかったのは、タイミングが合わなかったからなのか。

私は何が違うの?と尋ねた。母の手元から、虹色の泡がぷくりと飛び立つのが見えた。不安定に浮かび上がり、直ぐに弾けて飛び散る。

「出産したのは、葉菜ちゃんの妹の陽菜ちゃんの方よ」
「……え?」

不随意な声が零れ落ちた。

そういえば、葉菜には妹が居たなぁというやけにのんびりとした感想が一つ。そして、妹と言うことは、

「確か、十四歳になったばかりで産んだらしいわよ」

尋ねる迄もなく噂話はつるつると母の口を滑って出てくる。母の声は僅かに興奮を含んで上擦っていた。

「当然だけど中学には行かないでね。でも、十四歳だと結婚もできないじゃない。父親は十六だったらしいんだけど、陽菜ちゃん捨てられちゃったらしいのよ。それもあって、陽菜ちゃんは自分の娘の面倒見てないそうよ」

らしい、だそうだ、の連続に辟易とする。曖昧な言葉はしかし、重い真実を含んでいるようだった。私はむずむずと体を動かす。皮張りのソファが肌に粘って、不快だ。

母の口調は澱み無くて、どうやら私に話をしなかったのは御近所で話し尽くして満足した為だったみたいだ。

尚も母は続ける。

「まぁ、まだ子供だから仕方ないかもしれないけど、あんまりにも無責任よねぇ!子供ほったからして、学校も無いから遊び歩いて…」
「…」
「まず産んだのが問題じゃないかしら」

もうやめてくれ、と言いたいのに口がカラカラして喉が詰まって何も出てこない。私が会った子供の存在をこうもあっさり否定されたという事が純粋に恐ろしかった。母の言葉を拾う耳から、更には脳に反響する音で大事な何かが腐っていく錯覚に陥った。

「それで、葉菜ちゃんが子供の面倒見てるのよ」

母は洗い物を終えて溜め息を吐きながらダイニングの椅子に腰をおろした。私の方は見ない。自分の得た噂話を披露する事に完全に陶酔しているようだ。

「学校もやめて、ずっとお世話しているのよ。あの家、両親ともフルタイムで働いてるから。それも問題あると思うけど。何だか葉菜ちゃんが犠牲になってるみたいで、聞いてるこっちが嫌だったわ」

でも、と母は付け足す。ぼんやりと、視線を漂わせて…何かを思い返しているのだろうか。
「……偉いわよね」

ぽつりと母は葉菜を評価した。

自己犠牲が果たして評価すべき対象なのかは置いておいて、私も母のように、虚空に思いを巡らせる。自発的に思い出されたのは、先程の葉菜の笑顔だ。

慣れた手付きで子供を抱いて、あやして、そして誇らしそうに私に笑いかける。包み込むような笑顔――葉菜にとっては私も大きな子供だったのかもしれない。

そして私は気が付いた。葉菜は、終始笑顔だったのだ。私に子育ての辛さを愚痴る事もせず、姪っ子を娘と言って、精一杯の愛情で包んでいた。

愛で何でも出来る訳じゃない、けれど、彼女の中では辛いこと、苦しい事よりも姪っ子への思いが勝っているのだ。だから笑える。聖夜ちゃんの自慢が出来る。

「のえるって、言うんだってさ」

その子の名前、知ってる?声は勝手に震えた。

「十二月二十四日に生まれたから、聖夜って書いて、のえるなんだって」

太陽みたいな笑顔が、脳の中でゆらゆら揺れる。滲む。心の中に確かに沁み込んだ。

「すごい名前ね…」

すごい、は勿論悪い意味で使われていて、母は呆れと、侮蔑に似た表情を浮かべて言う。コンビニで動揺して、心の隅っこで葉菜を馬鹿にしていた私が見えた。胸が自分と母への嫌悪で一杯になってつかえる。これは猛省せねばなるまい。

私は深呼吸を一つした。

明日、葉菜の家に顔を出してみよう。何か手伝えたら良いかもしれない。話を聞くだけでも良いかもしれない。あの暖かな愛に私は焦がれていた。

外の橙の中には、ばいばい、またねの声が響いていた。

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