梅千代の創作物の保管庫です。
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『子殺し』
母が居なくては呼吸が出来ないように、母が居なくては食事が出来ないように、母が居なくては立ち上がれもしないように――私という人間は育てられて来た。
「柚」
やたら低い声が私を呼んだ。
きっと幻聴なのだろう。母以外が私を呼ぶ筈がない。
「柚」
だって目の前の彼女は口を動かしていないのだから。呼吸してない人が言葉を発する訳がないから。
「柚!」
ああ、うるさいなぁ!!
私はしかめっ面で幻聴のもとを振り返った。そういえば、父も私を呼ぶのだった。睨まれた父は具合悪そうにため息を吐いた。
「柚…もうお別れだよ」
父は酷く疲れた顔で私の隣に座った。畳と靴下が擦れてざり、と音がした。
父の顔には無精髭がはえていて、目には隈があり、普段より十歳は老けて見えた。親の憔悴し切った表情は、あまり見たいものじゃない。私は前に向き直った。
――しかし、かと言って、親の死体も見たいものじゃないな。
今日は、私の母の葬式だった。
私と父の目の前には、柩にきっちり収まった母が安らかに眠っている。死化粧のせいでいつもより土っぽい色をした肌になっていて、そのせいで「それ」は一層人形じみて見えた。
本当にこの人は死んでしまったのだろうか。私はまだ理解できずにいる。理解したくないのかもしれない。
脳溢血で倒れ、もう彼女は動かない。あっという間に逝ってしまった。そう結論は晒されているというのに、信じられない。
傍目から見ると私は母の死にうちひしがれている様にしか見えないかもしれない。しかし、実際は混乱している、というのが正しい状態だった。
涙が出てこないのだ。
幾ら、私の崩壊した世界の中心を眺めていても。
「柚…もう、行かないと」
「………うん」
父は私を気遣って静かにもう一度催促した。霊柩車をあまり待たせる訳にもいかない。私は覚束ない足どりで母のもとから立ち上がった。
どくんっ
私は足を止めた。耳元で確かに大きな音がしたのだ。心臓を耳に寄せられたような大きな拍動の音だった。思わず振り返るが、
「どうした?」
そこには父が立っているだけだった。
「何でもない…」
私はまた、ふらふらと歩き始めた。
母の柩は親族の手で運ばれて行った。彼らの足元がふらついているのは遺体の重さのせいだろう。死んだ人間というのは、何故だか生前よりずっしりと重い気がする。死ぬまでに得た何かが質量を持つのだろうか。
霊柩車の中に、ゆっくりと柩が入っていった。
「柚、うちの車で火葬場まで向かうから」
「………」
私は無言で父の後をついていった。
混乱はまだ続いている。
涙もまだまだ出そうにない。
頭の回路のどこかがおかしくなってしまったようである。
うちの車には愛煙家の父のせいで煙草の臭いが染み付いている。私は遺影を抱え助手席に座った。父は流石に運転する時にはしっかりとしているようだった。
車内に会話はない。まるで、声を発してはいけないような雰囲気であった。車のエンジン音だけ、喧しく響いている。
私にとって沈黙は好都合だった。私は黙ったままひたすらに考えていた。
混乱――これは一体どういった混乱であるのか。それを突き止めない事には話は始まらない。
私の心に悲しみは勿論存在しているのだが……否、違う。きっと存在するというだけでは駄目なのだ。本来悲しみで心を満たしてしまうべきなのだ。
きっと悲しみ以外の何かがあるから私は混乱してしまっているのだ。
私たちの乗った車は滑らかに火葬場の駐車場に停車した。
火葬場では母に最後の挨拶を告げることとなった。
肉体は焼かれて、魂はどこかへ流れていく。うちがどんな宗教に括られているか知らないが、私にはそれが変わりない事実に感じられた。
あの世とこの世の境目の銀色の扉が閉められた。
遺体が焼けてしまうまで、別室でお茶をして待つ。集まっているのは親族だけだからくだけた空気になって、葬式の暗く陰鬱なムードは吹き飛ばされていた。
「本当に、良い妻君でした」
父は母の両親にしみじみ言っていた。
私にとっての母も、良い母であったと思う。沢山の愛情をかけてもらった。
しかし、それは私が思ってるだけで客観的に見ると彼女はかなり支配的な母だったようだ。よく、数少ない友人に異常だと言われた。
遊ぶ友達を制限されることもあったし、当然のように身だしなみもチェックされた。メールも見られたことがある。勉強する時間、遊ぶ時間…高校になっても決められていて、私がたまにうっかりそれを破ると母はヒステリックに私を叱った。
私の行動を制限する代わりに、母は私の身の回りの世話を何でもやった。
「もう、柚は何もできないんだから」
そういって母は満足そうに私の世話をした。食べこぼしを掃除し、学業を監視し、私の部屋を片付けた。
柚は何もできないんだから。
呪いに似た言葉だ。
母の言いつけを守る限り、母が私の世話を甲斐甲斐しくする限り、うちの家庭は穏やかであった。私もその、歪んだ安寧にあぐらをかいていた。
母の言うことはいつも正しかったから。むしろ、母の言うことだから正しいとされてきたから。
急にとんとん、と肩を叩かれて私はそちらを振り返った。
「柚ちゃんも、お菓子食べない?」
従兄弟の一人が私に最中を差し出していた。私はつとめて明るく、ありがとうと言って最中を受け取った。
餡が随分甘ったるい。お茶を流しこんで中和した。
どくんっ
………まただ。私は耳に手をあてた。
何の音なのだろうか。きょろきょろ見回しても、音源でありそうなものは見つからない。挙動不審な行動は従兄弟に何か探しているの、と聞かれる程だった。
どくんっ
どくんっ
正体不明の音を気に留めないようにして耐えている間に母は骨に変わったらしい。私は父と共に先頭を歩いてまた火葬場に向かった。
母が乗っていた台に、乗って戻って来たのは大小さまざまな白い欠片だった。
胸の中が喪失感と悲しみとわからない何かで息苦しくなった。私は支離滅裂な感情のまま、箸をとって父と一緒に骨を骨壺に納めた。
どくんっ
どくんっ
耳元でまた何かが鳴った。
骨を離すと、からん、ととても軽い乾いた音がした。
どくんっ
「あ、」
不随意な声が漏れて、父が怪訝そうに此方を見た。
後ろに続いてる人達の邪魔になるのでよたつきながら横にはけた。
「あ、ああ」
漸く見つけた。
喪失感、悲しみ、それから……暗い悦び。
混乱の正体は悦びだ。
これから私は、母が居なくても呼吸をして、母が居なくても食事をし、母が居なくても立って歩かねばならないのだ。
どくんっ
それは生まれ変わるのに等しい…今までの私が死ぬということ。そして、生まれるということ。
その、悦び。
どくんっ
どくんっ
どくんっ!
この音は、新しい私が生きている音。
母は自分が死ぬことで母に従順な私を殺して、私をもう一度産んだのだ。
今日は私の命日で私の誕生日だ。
骨壺に全ての骨が入れられた。一体の死体が実に小さな壺に納まりきった。
どくんっ!
どくんっ!
耳元では新しい私の音。目から溢れた涙が頬を伝った。
手渡された骨壺に私はそっと囁いた。
ただ一言、さようなら、と。
(母さんが私を殺したの)
—————
イマイチな出来…書き直すかもです。
母が居なくては呼吸が出来ないように、母が居なくては食事が出来ないように、母が居なくては立ち上がれもしないように――私という人間は育てられて来た。
「柚」
やたら低い声が私を呼んだ。
きっと幻聴なのだろう。母以外が私を呼ぶ筈がない。
「柚」
だって目の前の彼女は口を動かしていないのだから。呼吸してない人が言葉を発する訳がないから。
「柚!」
ああ、うるさいなぁ!!
私はしかめっ面で幻聴のもとを振り返った。そういえば、父も私を呼ぶのだった。睨まれた父は具合悪そうにため息を吐いた。
「柚…もうお別れだよ」
父は酷く疲れた顔で私の隣に座った。畳と靴下が擦れてざり、と音がした。
父の顔には無精髭がはえていて、目には隈があり、普段より十歳は老けて見えた。親の憔悴し切った表情は、あまり見たいものじゃない。私は前に向き直った。
――しかし、かと言って、親の死体も見たいものじゃないな。
今日は、私の母の葬式だった。
私と父の目の前には、柩にきっちり収まった母が安らかに眠っている。死化粧のせいでいつもより土っぽい色をした肌になっていて、そのせいで「それ」は一層人形じみて見えた。
本当にこの人は死んでしまったのだろうか。私はまだ理解できずにいる。理解したくないのかもしれない。
脳溢血で倒れ、もう彼女は動かない。あっという間に逝ってしまった。そう結論は晒されているというのに、信じられない。
傍目から見ると私は母の死にうちひしがれている様にしか見えないかもしれない。しかし、実際は混乱している、というのが正しい状態だった。
涙が出てこないのだ。
幾ら、私の崩壊した世界の中心を眺めていても。
「柚…もう、行かないと」
「………うん」
父は私を気遣って静かにもう一度催促した。霊柩車をあまり待たせる訳にもいかない。私は覚束ない足どりで母のもとから立ち上がった。
どくんっ
私は足を止めた。耳元で確かに大きな音がしたのだ。心臓を耳に寄せられたような大きな拍動の音だった。思わず振り返るが、
「どうした?」
そこには父が立っているだけだった。
「何でもない…」
私はまた、ふらふらと歩き始めた。
母の柩は親族の手で運ばれて行った。彼らの足元がふらついているのは遺体の重さのせいだろう。死んだ人間というのは、何故だか生前よりずっしりと重い気がする。死ぬまでに得た何かが質量を持つのだろうか。
霊柩車の中に、ゆっくりと柩が入っていった。
「柚、うちの車で火葬場まで向かうから」
「………」
私は無言で父の後をついていった。
混乱はまだ続いている。
涙もまだまだ出そうにない。
頭の回路のどこかがおかしくなってしまったようである。
うちの車には愛煙家の父のせいで煙草の臭いが染み付いている。私は遺影を抱え助手席に座った。父は流石に運転する時にはしっかりとしているようだった。
車内に会話はない。まるで、声を発してはいけないような雰囲気であった。車のエンジン音だけ、喧しく響いている。
私にとって沈黙は好都合だった。私は黙ったままひたすらに考えていた。
混乱――これは一体どういった混乱であるのか。それを突き止めない事には話は始まらない。
私の心に悲しみは勿論存在しているのだが……否、違う。きっと存在するというだけでは駄目なのだ。本来悲しみで心を満たしてしまうべきなのだ。
きっと悲しみ以外の何かがあるから私は混乱してしまっているのだ。
私たちの乗った車は滑らかに火葬場の駐車場に停車した。
火葬場では母に最後の挨拶を告げることとなった。
肉体は焼かれて、魂はどこかへ流れていく。うちがどんな宗教に括られているか知らないが、私にはそれが変わりない事実に感じられた。
あの世とこの世の境目の銀色の扉が閉められた。
遺体が焼けてしまうまで、別室でお茶をして待つ。集まっているのは親族だけだからくだけた空気になって、葬式の暗く陰鬱なムードは吹き飛ばされていた。
「本当に、良い妻君でした」
父は母の両親にしみじみ言っていた。
私にとっての母も、良い母であったと思う。沢山の愛情をかけてもらった。
しかし、それは私が思ってるだけで客観的に見ると彼女はかなり支配的な母だったようだ。よく、数少ない友人に異常だと言われた。
遊ぶ友達を制限されることもあったし、当然のように身だしなみもチェックされた。メールも見られたことがある。勉強する時間、遊ぶ時間…高校になっても決められていて、私がたまにうっかりそれを破ると母はヒステリックに私を叱った。
私の行動を制限する代わりに、母は私の身の回りの世話を何でもやった。
「もう、柚は何もできないんだから」
そういって母は満足そうに私の世話をした。食べこぼしを掃除し、学業を監視し、私の部屋を片付けた。
柚は何もできないんだから。
呪いに似た言葉だ。
母の言いつけを守る限り、母が私の世話を甲斐甲斐しくする限り、うちの家庭は穏やかであった。私もその、歪んだ安寧にあぐらをかいていた。
母の言うことはいつも正しかったから。むしろ、母の言うことだから正しいとされてきたから。
急にとんとん、と肩を叩かれて私はそちらを振り返った。
「柚ちゃんも、お菓子食べない?」
従兄弟の一人が私に最中を差し出していた。私はつとめて明るく、ありがとうと言って最中を受け取った。
餡が随分甘ったるい。お茶を流しこんで中和した。
どくんっ
………まただ。私は耳に手をあてた。
何の音なのだろうか。きょろきょろ見回しても、音源でありそうなものは見つからない。挙動不審な行動は従兄弟に何か探しているの、と聞かれる程だった。
どくんっ
どくんっ
正体不明の音を気に留めないようにして耐えている間に母は骨に変わったらしい。私は父と共に先頭を歩いてまた火葬場に向かった。
母が乗っていた台に、乗って戻って来たのは大小さまざまな白い欠片だった。
胸の中が喪失感と悲しみとわからない何かで息苦しくなった。私は支離滅裂な感情のまま、箸をとって父と一緒に骨を骨壺に納めた。
どくんっ
どくんっ
耳元でまた何かが鳴った。
骨を離すと、からん、ととても軽い乾いた音がした。
どくんっ
「あ、」
不随意な声が漏れて、父が怪訝そうに此方を見た。
後ろに続いてる人達の邪魔になるのでよたつきながら横にはけた。
「あ、ああ」
漸く見つけた。
喪失感、悲しみ、それから……暗い悦び。
混乱の正体は悦びだ。
これから私は、母が居なくても呼吸をして、母が居なくても食事をし、母が居なくても立って歩かねばならないのだ。
どくんっ
それは生まれ変わるのに等しい…今までの私が死ぬということ。そして、生まれるということ。
その、悦び。
どくんっ
どくんっ
どくんっ!
この音は、新しい私が生きている音。
母は自分が死ぬことで母に従順な私を殺して、私をもう一度産んだのだ。
今日は私の命日で私の誕生日だ。
骨壺に全ての骨が入れられた。一体の死体が実に小さな壺に納まりきった。
どくんっ!
どくんっ!
耳元では新しい私の音。目から溢れた涙が頬を伝った。
手渡された骨壺に私はそっと囁いた。
ただ一言、さようなら、と。
(母さんが私を殺したの)
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イマイチな出来…書き直すかもです。
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