梅千代の創作物の保管庫です。
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都会の喧騒に馴染めず、町の色彩にどこか物足りなさを感じるのはやはり僕が田舎者から脱却しきれていないからだろうか。革靴が重くて、ネクタイは窮屈で、僕は思わず空を見上げた。ふう、と息をついて思う。
(空すら狭っ苦しいのか)
灰色、とまでは言わない。しかし青いとは決して言えない空は、巨大なビル群で大半が隠されてしまっていた。
倦怠感に負けて、僕は仕事中にも関わらず道端に設置されているベンチに座り込んだ。群集から一歩抜け出すと全ての物から取り残された様な、変な気分になった。
キリキリとネジを巻かれた人形の様に、人びとはせかせかと歩く。
田舎に比べて都会の人間の歩く速度は速いから疲れたのかなぁ、なんて妙に冷静に考察してみたりした。
間違った考察であるのは、自分が一番理解している。
ぺたり、とベンチの座面に手で触ってみた。初夏と言えど、それはビルの影でひんやりとしていた。
また天を仰ぐと、光が遠い。自分がビルの岩肌に身を隠す深海魚になったような気分だ。明るい水面は遥か上にあり、しかし、エラ呼吸がよくわからない僕は窒息するに決まっている。
(、本当に窒息しそうだ)
ひゅう、と喉が鳴った。
それもずっとなのだ。窒息しそう、ではなくもう既に窒息しているのかもしれない。何をするにもかったるくて、億劫で、しんどい。
例えば今日のシャツは昨日使ったものを連続で着ていてしわしわだ。マトモな飯はいつ以来食べていないだろう。部屋はごみ溜めと化している。
自分はこんなにもだらしがない人間だっただろうか。
(疲れた…)
何に?
恐らくはやって来る毎日に。
僕が一時帰郷を決めたのはこういった精神的な理由からだった。
◆
会社に休暇を申請すると係の人に何故か同情にも似た顔をされて、あっさりと受理された。
本当のところを言うと帰郷すら面倒に思えた。だから僕は必要最低限の荷物を持って、行動しようとする心が折れる前に故郷へ向かった。
新幹線を利用してから数本電車を乗り継ぐ。電車が進むごとに窓から見える緑の量は増えていった。
最後の電車に乗って暫くすると見慣れた風景が現れた。大学で上京したぎり一度も戻ったことが無かった、懐かしの小さな港町である。
最寄りの駅で降車する。と、同時に強烈な潮の香りに出迎えられた。
駅は比較的に高い位置にあるので背の低い家々の向こう側には藍色の海を見ることが出来た。海がせり上がって、空と続いて行く風景だ。
見上げると、空が近い。都会よりも蒼い空が眼前へと迫ってきて、吸い込まれていく様な気がした。
もうここが空みたいだ。
鼻の奥がつんとして、ボロボロと涙が溢れ出た。全く意味の無い涙だが、行き場を失くしたように勝手に溢れだして来るのだ。なりたてだが、一社会人が恥ずかしい。
僕は近くにある年季の入ったベンチに座り込んだ。はぁー、とゆっくり息を吐く。荷物をぎゅうと抱き込み自分に言い聞かす。落ち着けメンタル。締まれ涙腺の蛇口。しかし更に涙は零れるばかりで止まる気配がない。
(まだ、苦しい?)
息継ぎの為の帰郷の筈なのに、僕は肺呼吸すら忘れてしまったのだろうか?
「おーい、彩月(サツキ)かぁー?」
不意に名前を呼ばれて顔を上げると、線路に隣接した道路に、一台の白いワゴン車が止まっているのが見えた。そして、その車から顔を出している旧友の姿もみとめられた。
僕は急いで涙を拭って、軽く手を振って見せた。
「めっちゃ偶然やーん!乗ってきぃ!!」
友人、清澄 武(キヨスミ タケ)はにっかりと、太陽みたいに笑って言った。
少し考えた後、僕は武の言葉に甘える事にした。
ワゴンの助手席に乗り込みながら、僕は悪いな、と謝罪した。武はカラカラ笑って全然ヘーキ!と答えた。
「ホンマ久しぶりやんなぁ!四年ぶり位か?」
「ああ、たぶんそん位……まだ煙草吸ってんだ?」
車の匂いが少しばかりヤニっぽい。そういえば武は高校の頃からこそこそ喫煙していたっけ。
武はにやりと不敵な笑みを浮かべた。大方僕と同様に高校時代の事を思い出したのだろう。
「ああ。煙草税が敵。――で、彩月、なんで泣いてたん?」
苦笑の後、武は余りにもサックリと単刀直入に言った。その所為で僕がぴしり、と固まってしまったのも無理は無いだろう。なんの前触れもなくこう…デリケートな部分を尋ねられるとは思ってもみなかった。旧友のつーかーに甘えていたのだ。僕はどう答えようかと口ごもってしまった。
「………ええ、まぁ、うん…なんでだろなぁ…」
誤魔化している訳でなく、本当にわからなかった。曖昧なのがまさに正直な答えだ。
「ふーん、そっか。まぁええわ」
武が深く聞いて来なかったのに僕は安堵した。
武は慣れたようにハンドルを操作して車を走らせる。カーブを曲がると灯台がキラリと日を受けて煌めいた。眩しさに目を細める。
武は置いてあった缶コーヒーに手を伸ばすと、車を走らせたまま一口飲んだ。
「いやー、それにしても意外と粘ったなぁ!」
「え?何が」
武の話がよく解らず、僕は問う。
「お前だよ。他の奴等は結構直ぐ帰ってきたぜぇ」
どうやら大学に通う為に上京した人達は随分前に暫く帰郷していたらしい。
「ふーん…」
「讓なんて大学入って一月もしないで一回帰ってきたんやで!?讓らしいけどよぉ」
「はは、そうだね」
「…………」
武は車を走らせているのにも関わらず、僕の方へ顔を向けた。途端ユラユラとどっかのアトラクションの様に車体が揺らめいた。
うわ、と声が出たのは条件反射だ。
「どあほ、ちゃんと前見ろよな!?」
慌てて武を非難すると、武は前にちゃんと向き直った。前を向いたは良いが、
「――ッおま、今赤信号ッ」
「はっはー過疎ってる村に都会のルールは当て嵌まんねぇよ☆」
「全・国・共・通!!」
しかも日本だけでなくよりグローバルな方で。
そんなやり取りを続けていると、幾らか気分が良くなってきた。こういう繋がりが酸素補給なのだろうか?東京でも友人はかなりいるから、論理の整合性に欠ける気がするが一理あるかもしれない。
武は何個目かの赤信号を通過して(数を重ねると僕も抵抗感が無くなった)、僕に尋ねた。
「そういえば彩月就職決まったんやっけな。今何やってるん?」
「製薬会社の新薬開発とか?」
「とか?」
僕は苦笑した。
「そんなにでかい会社じゃないから、並列して外回りも手伝わされてる」
「多忙やん!へー」
「武は?やっぱり家の手伝いやってんの?」
武はにかっと、また嬉しそうに笑って言った。
「せやで。見習い漁師兼フリーター」
「それは兼とは言わねえ…気が」
「なにおうっ!?ちゃんと仕事してんべ、漁師だけじゃ食ってけねぇのっ」
ぷぷいっと武は頬を膨らませた。
がごん、と地面の舗装が荒いせいか、車体がまた揺れた。窓の外には懐かしくなってしまった景色が流れていく。
「そういや彩月、こっちにどん位いるん?」
武の問い掛けに僕は一週間と答えた。武はじゃあ結構遊べるな、とまた笑顔で言った。
(空すら狭っ苦しいのか)
灰色、とまでは言わない。しかし青いとは決して言えない空は、巨大なビル群で大半が隠されてしまっていた。
倦怠感に負けて、僕は仕事中にも関わらず道端に設置されているベンチに座り込んだ。群集から一歩抜け出すと全ての物から取り残された様な、変な気分になった。
キリキリとネジを巻かれた人形の様に、人びとはせかせかと歩く。
田舎に比べて都会の人間の歩く速度は速いから疲れたのかなぁ、なんて妙に冷静に考察してみたりした。
間違った考察であるのは、自分が一番理解している。
ぺたり、とベンチの座面に手で触ってみた。初夏と言えど、それはビルの影でひんやりとしていた。
また天を仰ぐと、光が遠い。自分がビルの岩肌に身を隠す深海魚になったような気分だ。明るい水面は遥か上にあり、しかし、エラ呼吸がよくわからない僕は窒息するに決まっている。
(、本当に窒息しそうだ)
ひゅう、と喉が鳴った。
それもずっとなのだ。窒息しそう、ではなくもう既に窒息しているのかもしれない。何をするにもかったるくて、億劫で、しんどい。
例えば今日のシャツは昨日使ったものを連続で着ていてしわしわだ。マトモな飯はいつ以来食べていないだろう。部屋はごみ溜めと化している。
自分はこんなにもだらしがない人間だっただろうか。
(疲れた…)
何に?
恐らくはやって来る毎日に。
僕が一時帰郷を決めたのはこういった精神的な理由からだった。
◆
会社に休暇を申請すると係の人に何故か同情にも似た顔をされて、あっさりと受理された。
本当のところを言うと帰郷すら面倒に思えた。だから僕は必要最低限の荷物を持って、行動しようとする心が折れる前に故郷へ向かった。
新幹線を利用してから数本電車を乗り継ぐ。電車が進むごとに窓から見える緑の量は増えていった。
最後の電車に乗って暫くすると見慣れた風景が現れた。大学で上京したぎり一度も戻ったことが無かった、懐かしの小さな港町である。
最寄りの駅で降車する。と、同時に強烈な潮の香りに出迎えられた。
駅は比較的に高い位置にあるので背の低い家々の向こう側には藍色の海を見ることが出来た。海がせり上がって、空と続いて行く風景だ。
見上げると、空が近い。都会よりも蒼い空が眼前へと迫ってきて、吸い込まれていく様な気がした。
もうここが空みたいだ。
鼻の奥がつんとして、ボロボロと涙が溢れ出た。全く意味の無い涙だが、行き場を失くしたように勝手に溢れだして来るのだ。なりたてだが、一社会人が恥ずかしい。
僕は近くにある年季の入ったベンチに座り込んだ。はぁー、とゆっくり息を吐く。荷物をぎゅうと抱き込み自分に言い聞かす。落ち着けメンタル。締まれ涙腺の蛇口。しかし更に涙は零れるばかりで止まる気配がない。
(まだ、苦しい?)
息継ぎの為の帰郷の筈なのに、僕は肺呼吸すら忘れてしまったのだろうか?
「おーい、彩月(サツキ)かぁー?」
不意に名前を呼ばれて顔を上げると、線路に隣接した道路に、一台の白いワゴン車が止まっているのが見えた。そして、その車から顔を出している旧友の姿もみとめられた。
僕は急いで涙を拭って、軽く手を振って見せた。
「めっちゃ偶然やーん!乗ってきぃ!!」
友人、清澄 武(キヨスミ タケ)はにっかりと、太陽みたいに笑って言った。
少し考えた後、僕は武の言葉に甘える事にした。
ワゴンの助手席に乗り込みながら、僕は悪いな、と謝罪した。武はカラカラ笑って全然ヘーキ!と答えた。
「ホンマ久しぶりやんなぁ!四年ぶり位か?」
「ああ、たぶんそん位……まだ煙草吸ってんだ?」
車の匂いが少しばかりヤニっぽい。そういえば武は高校の頃からこそこそ喫煙していたっけ。
武はにやりと不敵な笑みを浮かべた。大方僕と同様に高校時代の事を思い出したのだろう。
「ああ。煙草税が敵。――で、彩月、なんで泣いてたん?」
苦笑の後、武は余りにもサックリと単刀直入に言った。その所為で僕がぴしり、と固まってしまったのも無理は無いだろう。なんの前触れもなくこう…デリケートな部分を尋ねられるとは思ってもみなかった。旧友のつーかーに甘えていたのだ。僕はどう答えようかと口ごもってしまった。
「………ええ、まぁ、うん…なんでだろなぁ…」
誤魔化している訳でなく、本当にわからなかった。曖昧なのがまさに正直な答えだ。
「ふーん、そっか。まぁええわ」
武が深く聞いて来なかったのに僕は安堵した。
武は慣れたようにハンドルを操作して車を走らせる。カーブを曲がると灯台がキラリと日を受けて煌めいた。眩しさに目を細める。
武は置いてあった缶コーヒーに手を伸ばすと、車を走らせたまま一口飲んだ。
「いやー、それにしても意外と粘ったなぁ!」
「え?何が」
武の話がよく解らず、僕は問う。
「お前だよ。他の奴等は結構直ぐ帰ってきたぜぇ」
どうやら大学に通う為に上京した人達は随分前に暫く帰郷していたらしい。
「ふーん…」
「讓なんて大学入って一月もしないで一回帰ってきたんやで!?讓らしいけどよぉ」
「はは、そうだね」
「…………」
武は車を走らせているのにも関わらず、僕の方へ顔を向けた。途端ユラユラとどっかのアトラクションの様に車体が揺らめいた。
うわ、と声が出たのは条件反射だ。
「どあほ、ちゃんと前見ろよな!?」
慌てて武を非難すると、武は前にちゃんと向き直った。前を向いたは良いが、
「――ッおま、今赤信号ッ」
「はっはー過疎ってる村に都会のルールは当て嵌まんねぇよ☆」
「全・国・共・通!!」
しかも日本だけでなくよりグローバルな方で。
そんなやり取りを続けていると、幾らか気分が良くなってきた。こういう繋がりが酸素補給なのだろうか?東京でも友人はかなりいるから、論理の整合性に欠ける気がするが一理あるかもしれない。
武は何個目かの赤信号を通過して(数を重ねると僕も抵抗感が無くなった)、僕に尋ねた。
「そういえば彩月就職決まったんやっけな。今何やってるん?」
「製薬会社の新薬開発とか?」
「とか?」
僕は苦笑した。
「そんなにでかい会社じゃないから、並列して外回りも手伝わされてる」
「多忙やん!へー」
「武は?やっぱり家の手伝いやってんの?」
武はにかっと、また嬉しそうに笑って言った。
「せやで。見習い漁師兼フリーター」
「それは兼とは言わねえ…気が」
「なにおうっ!?ちゃんと仕事してんべ、漁師だけじゃ食ってけねぇのっ」
ぷぷいっと武は頬を膨らませた。
がごん、と地面の舗装が荒いせいか、車体がまた揺れた。窓の外には懐かしくなってしまった景色が流れていく。
「そういや彩月、こっちにどん位いるん?」
武の問い掛けに僕は一週間と答えた。武はじゃあ結構遊べるな、とまた笑顔で言った。
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◆
僕の家に木下出雲がやって来たのはシモンが帰国して半月ほど経ってからだった。
「やあ、珍しいね」
「まぁーな。邪魔するぞ」
出雲は鼻と頬を赤くして寒さに身を縮めながら僕の家に上がり込んだ。襟巻きに顔が半分埋まっている。幼馴染みであるが故勝手を知っている仲であるだけに彼は遠慮せず一直線に囲炉裏へ向かった。
「うーん、凍みるな」
「ははは。今日はどうしたんだよ」
僕も隣に座り込む。ぱちん、ぱち、と炭が燃える音が、部屋にやけに響いた。
出雲と僕は幼馴染みであるとはいえ、幕府内で所属している派閥(本当は面倒だから入りたくないのだが)は別個だ。会話さえお互いに憚る事が多かった。
出雲はあー、うーんなんて長いこと唸った後、ようやっと本題に入った。
「口止めされてたんだけどな」
「うん」
「シモンさんお前がやらかした事全部知ってたぞ」
出雲からその話が出た事にむしろ僕は驚いた。シモンには「知っている」と別れ際に言われた事だ。出雲が知っているということはきっとシモンは彼に頼んで、あの時何があったのか知ったのだろう。
その事なら知ってるよ、そう答えると出雲は鼻白んだ。
「何だよ!折角…意を決して伝えに来たって言うのに!!」
「すまないな。でもまあ、出雲が此処へ足を運んでくれた理由になったから嬉しいよ」
出雲は僕の言葉を聞くと具合悪そうにして頬を赤くした。照れ屋なのだ。
暖まってきたのもあるのか、出雲は襟巻きを外すとごろんと寝っ転がった。久しぶりでも家に来てこんなに和んでくれるというのはやはり少し嬉しい。出雲の方はあまり僕を好いていないようだから。
ぱちんぱちん…、囲炉裏の火の音は夜の静けさへと吸い込まれていく。雪こそ降ってはいないが今夜は随分と冷える。隙間風がひゅうと抜けていった。出雲がさっきまであんなに縮こまっていたのもわかる気がした。
出雲はぼそりと呟いた。
「口に蜜あり腹に剣ありってか…」
「ん?どうした」
「何でもねえよ御人好しの蜂蜜野郎」
「意味がわからないが理不尽だな…」
今度は外でびゅうと一際強い風が吹き、戸を殴り付けていった。
幾らかの舞い上がった細かな埃が光を受けてらしくなく美しく煌めいた。
「…おためごかしはあまり好かんってさ」
囲炉裏の火を見つめて出雲は言った。
「誰が?」
「ミスターシモン」
「ああ」
だろうね、と笑ってみせる。出雲は何か言い含められたのだろうか。
くすくす笑い続ける僕に出雲は憮然としてみせた。
「なーんか、いっつもお前にゃあ敵わなくて腹立たしいわ」
僕は出雲のその言葉を聞くと益々可笑しくなって思い切り笑ってしまった。ぶすっとむくれた出雲はまだ僕らが幼かった頃を彷彿とさせた。
「出雲は良い奴だな、本当に」
「お前に言われっと苛々する、本当に」
ふん、と鼻を鳴らして出雲は顔を背けた。赤くなっている耳を見ると、やはり笑えてしまう。
お互い黙り、暫くすると規則正しい呼吸が聞こえた。他人の家なのに、出雲はそのまま寝入ってしまったようだった。
何人もの功労者のお陰で旧幕府は潰れ、新政府が発足、沢山の人の努力によって国の仕組みが組み替えられていった。
戦いが起きた。人がたくさん、たくさん死んだ。
そんな激動の時代の中、僕はなんとか生き残った。
外国人が国内を歩き回るのももう珍しくはない。国民はあれほど嫌っていた海外の知識を積極的に受け入れ始めた。
渡航の禁止も解け僕も英国へと行く事が出来るようになったが……仕事もあって行かなかった。むしろ、仕事を理由に行くことをやめた。
何通か交わした手紙によるとシモンの方も英国の政治に忙殺されているらしい。彼はあれ程の親日家でありながら別れてから一度も日本の土を踏んでいない。
僕はそれにも安堵した。安堵した事に対する嫌悪には気付かないふりをした。
シモンはきっと私を赦してくれている。いつでもおいでと言ってくれた。だが、だからといって僕はのうのうと彼の家へと向かって良いのだろうか?
心の中で、何度も問いを反芻する。
そして何故自分が彼の元へ行けないのかがわかった。
彼が「僕がやったことを知って」いて「それを赦してくれている」からこそ行けないのだ。羞恥心が僕を赦さない。僕が、僕を…赦さない。
そうして無為に日々を過ごしている時の事だった。
「修一」
呼ばれて振り返ると出雲が此方へ歩み寄って来ているところだった。新築の西洋式の仕事場の床がカツコツと革靴の音をよく響かせている。彼の髪型や、服が洋装になったのにも漸く見慣れてきた。
幕府が潰れたお陰で以前のような派閥争いに因るいざこざはある程度収まり、出雲とはいつかの様に話し合う仲になっていた。
彼も英語が堪能である為、仕事をよく共にする。これも関係改善の一因であろう。
「なんだ?呑みにでも行くか」
「いや、今日はそうではなくだな」
出雲は頭を掻きながら問う。
「英吉利に――なんでお前が行かないんだ」
ずばり言われ過ぎて一瞬静止してしまった。
今度、政府の一部の人間は英国へと視察に行く事が決定していた。僕は、その人員に立候補出来なかったのだ。
内心狼狽えながらも、僕は静かに答えた。
「…出雲だって行きたがってたじゃあないか。あれだけいれば人数は十分だ」
「脳味噌は足りねえよ。語学力もな。それにもう一人位融通は利く。今からでも言って来い」
出雲は迫るように言ってきた。僕は一歩身を引いてしまった。
「修一」
固い声で出雲は僕の名を呼ぶ。
「お前は反省することと逃げることを履き違えている」
「!!」
ぴしゃり、と言い放たれた。自分の顔が歪むのが鏡を前にしなくともわかった。
出雲はそんな僕を見てフン、と鼻を鳴らした。
「賢くいらっしゃる幸田修一殿が、結果を予測して無かった訳でも無いだろう。来るべき結果を含めてそれでも判断したんだろう。だったら情けねえ面してないで胸を張れ。どうせ勝手に責任感じて怖じ気づいてるんだろう馬鹿者めが」
かつてないほどこき下ろされ、僕は怒りも感じず呆けてしまった。
出雲の目は至って真面目だった。
「行け。さもなければ後悔する」
少し迷いに震えてしまったが、押し切られるようにして僕は曖昧に頷いた。
英国の冬は日本より温暖であるようで、外套一つで無理なく過ごすことが出来た。
国を渡ると、まだまだ自国が遅れをとっていることを痛感する。盗みとれる知識は町のそこかしこに溢れかえっていたが、しかし、僕はそれらに目を向けることに集中出来ていなかった。
「幸田殿」
出雲に目で注意されるほど散々な状態らしい。ため息が漏れ、乾いた風に白く流れていった。
その時だった。
町中を行き交う、とある人の会話の中に僕は懐かしい、あの言葉を耳にした。
『自分で調べてごらん』
シモンがそう言った、言葉。
団体からはぐれてしまうのも構わず、僕はその人を追った。駆けていって、肩を叩く。
「失敬、今の言葉の意味なのですが…」
質問した人には物凄い不審の目を向けられつつも、教えて貰うことが出来た。
そして、思った。
なんて――なんて下らない。
「は、はははは…」
僕は雑踏の中、力なく笑った。じろじろと不躾な視線がこちらに向けられるが構わず僕は笑った。
シモンが来日していた頃から日本は成長した。表向き身分制度は崩壊したし、武士は刀を持たなくなった。幕府は潰れ、明治政府が発足して…だからもう、僕は昔ほど英国を羨望の眼差しで見なくなった。
シモンは国を否定するけど私は日本人で、自国を愛していて、英国は日本では無いから。
だから、
「これはもう、使わないな…」
というか使えない。私は闇色の虹彩だから。逆に言葉を作ってみようか?それだと卑怯という意味になってしまうかな。
意味もなく考えると同時に、ぶわっと迫ってくるようにシモンとのあれこれが思い出された。
師であり友であるその人。僕を呼ぶと珈琲を淹れてくれた。解らないことを丁寧に教えてくれた。屈託なく僕に笑いかけてくれていた。
シモンの言葉をいつしか信じられなくなったのは僕が一方的に苦悩していただけなのだ。
ああ、下らない。本当に下らない!
あの人は最後まで僕を信頼してくれていたのだから。だから、僕の小賢しい行動を知っても変わらないでいてくれた。
羞恥心がなんだって。それは僕の都合だ。
『お前は反省することと逃げることを履き違えている』
…出雲、僕も君には敵わないって思うよ。
「修一!何をしているんだ、行くぞ…!」
遠くで僕を呼ぶ出雲がはっと息を止めたのがわかった。
――大丈夫、会える。
瞳が潤んだけれど笑みが浮かんだ。
だって僕の師に、本当に正解かどうか訊かなくてはなるまい。
僕がまた一つ出来るようになったら彼は喜ぶのかな。それとも子供みたいに悔しがるのだろうか。
どちらにせよまた笑顔で珈琲を淹れてくれるに違いない。
僕はシモンを、シモンの言葉を信じよう。
すまない今行く、と僕は出雲に手を振った。
"green-eyed monster"
それは"嫉妬"。
さぁ、嫉妬深い緑の目をした親日天狗に会いに行こう。
—————
長々おつきあい感謝です><
矛盾点、稚拙な所は毎度ながら目を瞑ってやってください…
僕の家に木下出雲がやって来たのはシモンが帰国して半月ほど経ってからだった。
「やあ、珍しいね」
「まぁーな。邪魔するぞ」
出雲は鼻と頬を赤くして寒さに身を縮めながら僕の家に上がり込んだ。襟巻きに顔が半分埋まっている。幼馴染みであるが故勝手を知っている仲であるだけに彼は遠慮せず一直線に囲炉裏へ向かった。
「うーん、凍みるな」
「ははは。今日はどうしたんだよ」
僕も隣に座り込む。ぱちん、ぱち、と炭が燃える音が、部屋にやけに響いた。
出雲と僕は幼馴染みであるとはいえ、幕府内で所属している派閥(本当は面倒だから入りたくないのだが)は別個だ。会話さえお互いに憚る事が多かった。
出雲はあー、うーんなんて長いこと唸った後、ようやっと本題に入った。
「口止めされてたんだけどな」
「うん」
「シモンさんお前がやらかした事全部知ってたぞ」
出雲からその話が出た事にむしろ僕は驚いた。シモンには「知っている」と別れ際に言われた事だ。出雲が知っているということはきっとシモンは彼に頼んで、あの時何があったのか知ったのだろう。
その事なら知ってるよ、そう答えると出雲は鼻白んだ。
「何だよ!折角…意を決して伝えに来たって言うのに!!」
「すまないな。でもまあ、出雲が此処へ足を運んでくれた理由になったから嬉しいよ」
出雲は僕の言葉を聞くと具合悪そうにして頬を赤くした。照れ屋なのだ。
暖まってきたのもあるのか、出雲は襟巻きを外すとごろんと寝っ転がった。久しぶりでも家に来てこんなに和んでくれるというのはやはり少し嬉しい。出雲の方はあまり僕を好いていないようだから。
ぱちんぱちん…、囲炉裏の火の音は夜の静けさへと吸い込まれていく。雪こそ降ってはいないが今夜は随分と冷える。隙間風がひゅうと抜けていった。出雲がさっきまであんなに縮こまっていたのもわかる気がした。
出雲はぼそりと呟いた。
「口に蜜あり腹に剣ありってか…」
「ん?どうした」
「何でもねえよ御人好しの蜂蜜野郎」
「意味がわからないが理不尽だな…」
今度は外でびゅうと一際強い風が吹き、戸を殴り付けていった。
幾らかの舞い上がった細かな埃が光を受けてらしくなく美しく煌めいた。
「…おためごかしはあまり好かんってさ」
囲炉裏の火を見つめて出雲は言った。
「誰が?」
「ミスターシモン」
「ああ」
だろうね、と笑ってみせる。出雲は何か言い含められたのだろうか。
くすくす笑い続ける僕に出雲は憮然としてみせた。
「なーんか、いっつもお前にゃあ敵わなくて腹立たしいわ」
僕は出雲のその言葉を聞くと益々可笑しくなって思い切り笑ってしまった。ぶすっとむくれた出雲はまだ僕らが幼かった頃を彷彿とさせた。
「出雲は良い奴だな、本当に」
「お前に言われっと苛々する、本当に」
ふん、と鼻を鳴らして出雲は顔を背けた。赤くなっている耳を見ると、やはり笑えてしまう。
お互い黙り、暫くすると規則正しい呼吸が聞こえた。他人の家なのに、出雲はそのまま寝入ってしまったようだった。
何人もの功労者のお陰で旧幕府は潰れ、新政府が発足、沢山の人の努力によって国の仕組みが組み替えられていった。
戦いが起きた。人がたくさん、たくさん死んだ。
そんな激動の時代の中、僕はなんとか生き残った。
外国人が国内を歩き回るのももう珍しくはない。国民はあれほど嫌っていた海外の知識を積極的に受け入れ始めた。
渡航の禁止も解け僕も英国へと行く事が出来るようになったが……仕事もあって行かなかった。むしろ、仕事を理由に行くことをやめた。
何通か交わした手紙によるとシモンの方も英国の政治に忙殺されているらしい。彼はあれ程の親日家でありながら別れてから一度も日本の土を踏んでいない。
僕はそれにも安堵した。安堵した事に対する嫌悪には気付かないふりをした。
シモンはきっと私を赦してくれている。いつでもおいでと言ってくれた。だが、だからといって僕はのうのうと彼の家へと向かって良いのだろうか?
心の中で、何度も問いを反芻する。
そして何故自分が彼の元へ行けないのかがわかった。
彼が「僕がやったことを知って」いて「それを赦してくれている」からこそ行けないのだ。羞恥心が僕を赦さない。僕が、僕を…赦さない。
そうして無為に日々を過ごしている時の事だった。
「修一」
呼ばれて振り返ると出雲が此方へ歩み寄って来ているところだった。新築の西洋式の仕事場の床がカツコツと革靴の音をよく響かせている。彼の髪型や、服が洋装になったのにも漸く見慣れてきた。
幕府が潰れたお陰で以前のような派閥争いに因るいざこざはある程度収まり、出雲とはいつかの様に話し合う仲になっていた。
彼も英語が堪能である為、仕事をよく共にする。これも関係改善の一因であろう。
「なんだ?呑みにでも行くか」
「いや、今日はそうではなくだな」
出雲は頭を掻きながら問う。
「英吉利に――なんでお前が行かないんだ」
ずばり言われ過ぎて一瞬静止してしまった。
今度、政府の一部の人間は英国へと視察に行く事が決定していた。僕は、その人員に立候補出来なかったのだ。
内心狼狽えながらも、僕は静かに答えた。
「…出雲だって行きたがってたじゃあないか。あれだけいれば人数は十分だ」
「脳味噌は足りねえよ。語学力もな。それにもう一人位融通は利く。今からでも言って来い」
出雲は迫るように言ってきた。僕は一歩身を引いてしまった。
「修一」
固い声で出雲は僕の名を呼ぶ。
「お前は反省することと逃げることを履き違えている」
「!!」
ぴしゃり、と言い放たれた。自分の顔が歪むのが鏡を前にしなくともわかった。
出雲はそんな僕を見てフン、と鼻を鳴らした。
「賢くいらっしゃる幸田修一殿が、結果を予測して無かった訳でも無いだろう。来るべき結果を含めてそれでも判断したんだろう。だったら情けねえ面してないで胸を張れ。どうせ勝手に責任感じて怖じ気づいてるんだろう馬鹿者めが」
かつてないほどこき下ろされ、僕は怒りも感じず呆けてしまった。
出雲の目は至って真面目だった。
「行け。さもなければ後悔する」
少し迷いに震えてしまったが、押し切られるようにして僕は曖昧に頷いた。
英国の冬は日本より温暖であるようで、外套一つで無理なく過ごすことが出来た。
国を渡ると、まだまだ自国が遅れをとっていることを痛感する。盗みとれる知識は町のそこかしこに溢れかえっていたが、しかし、僕はそれらに目を向けることに集中出来ていなかった。
「幸田殿」
出雲に目で注意されるほど散々な状態らしい。ため息が漏れ、乾いた風に白く流れていった。
その時だった。
町中を行き交う、とある人の会話の中に僕は懐かしい、あの言葉を耳にした。
『自分で調べてごらん』
シモンがそう言った、言葉。
団体からはぐれてしまうのも構わず、僕はその人を追った。駆けていって、肩を叩く。
「失敬、今の言葉の意味なのですが…」
質問した人には物凄い不審の目を向けられつつも、教えて貰うことが出来た。
そして、思った。
なんて――なんて下らない。
「は、はははは…」
僕は雑踏の中、力なく笑った。じろじろと不躾な視線がこちらに向けられるが構わず僕は笑った。
シモンが来日していた頃から日本は成長した。表向き身分制度は崩壊したし、武士は刀を持たなくなった。幕府は潰れ、明治政府が発足して…だからもう、僕は昔ほど英国を羨望の眼差しで見なくなった。
シモンは国を否定するけど私は日本人で、自国を愛していて、英国は日本では無いから。
だから、
「これはもう、使わないな…」
というか使えない。私は闇色の虹彩だから。逆に言葉を作ってみようか?それだと卑怯という意味になってしまうかな。
意味もなく考えると同時に、ぶわっと迫ってくるようにシモンとのあれこれが思い出された。
師であり友であるその人。僕を呼ぶと珈琲を淹れてくれた。解らないことを丁寧に教えてくれた。屈託なく僕に笑いかけてくれていた。
シモンの言葉をいつしか信じられなくなったのは僕が一方的に苦悩していただけなのだ。
ああ、下らない。本当に下らない!
あの人は最後まで僕を信頼してくれていたのだから。だから、僕の小賢しい行動を知っても変わらないでいてくれた。
羞恥心がなんだって。それは僕の都合だ。
『お前は反省することと逃げることを履き違えている』
…出雲、僕も君には敵わないって思うよ。
「修一!何をしているんだ、行くぞ…!」
遠くで僕を呼ぶ出雲がはっと息を止めたのがわかった。
――大丈夫、会える。
瞳が潤んだけれど笑みが浮かんだ。
だって僕の師に、本当に正解かどうか訊かなくてはなるまい。
僕がまた一つ出来るようになったら彼は喜ぶのかな。それとも子供みたいに悔しがるのだろうか。
どちらにせよまた笑顔で珈琲を淹れてくれるに違いない。
僕はシモンを、シモンの言葉を信じよう。
すまない今行く、と僕は出雲に手を振った。
"green-eyed monster"
それは"嫉妬"。
さぁ、嫉妬深い緑の目をした親日天狗に会いに行こう。
—————
長々おつきあい感謝です><
矛盾点、稚拙な所は毎度ながら目を瞑ってやってください…
◆
「もし、君に不利益が生じたならば、この人に石を投げなさい」
お侍様は私に向かってそう仰いました。『この人』というのは貴方の事を指していました。
私はどうして彼が私にそう命じたのか解らず、戸惑ってお返事が出来ませんでした。そんな私にお侍様は焦れた様子で、君の為なんだと仰いました。
「諸事情あって、私は君を殴ることになるかもしれない。少しの間、辛いことがあると思う。でも信じてくれ」
お侍様の目は真剣でした。
そして不意にお侍様の視線が私から外されました。
「! くそっ」
私もつられて彼の視線を追いました。――私の村の子が駆けていくのが見えました。
お侍様は私を振り返ると念を押すようにもう一度仰いました。
「いいね、石を投げるんだ…」
◆
「本当にそう、彼は言ったのかい?」
私はあの時の少女に、キノシタを通して尋ねた。少女はそれに答えてこくり、と頷く。キノシタは話を間で聞いて、眉をひそめて何か考えている様だった。
そうだったのか、と私はぼそりと呟いた。
今日、私はシュウには休みと言って追い払い、内緒でキノシタ――彼もまた政府の者だ――に通訳を頼み少女に謝罪をしていた。私があの村に足を運ぶとまた厄介事を起こしてしまいそうだったので、人に頼んで彼女を私の住まわせて貰っている家に連れてきて貰ったのだった。
彼女はいつかの様に、むしろそれ以上に怯えた様子で、しかし私の質問にしっかりと答えてくれた。
事の子細を聞いて、漸く私は合点がいった。
シュウがあの時――私が石礫を投げつけられた時、あんなに辛そうにしていた事が私は引っ掛かっていたのだ。どう考えても、あれは何かを背負い込んでしまった者が浮かべる表情だった。
その後私と話している時も、古傷の痛みに耐えるような表情を度々浮かべていた。それも、私の疑問が助長された理由だった。
全く…と自然にため息が出た。自己嫌悪にも陥った。私は、私が好き勝手やらかした後処理を知らないとはいえ全てシュウに押し付けてしまっていたのだ。先生気取りで暢気なことだ。
私は少女に向き直ると今度は自分の口で謝った。
「すみませんでシタ」
ぺこりと頭を下げる。
少女ははっとした顔をして、目を見開いた。彼女の瞳から、ぽろぽろと涙が溢れた。
突然の事に私が焦っていると、少女が逆に言った。
――謝るのは私の方です。
――村の人に疎まれるのが恐ろしくて、貴方と出会った事を憎んで、石を投げてしまいました。
――本当になんと謝れば良いか…!
尚泣き続ける少女に、私はいつの間にか手を伸ばしてその頭を撫でていた。
少女は少し震え、暫く固まっていたが、またぽろぽろと涙を溢して静かに泣いた。
しかし次の瞬間、彼女はぐうと歯を食いしばると私を真っ直ぐに見上げた。
――今は、貴方に出会えた事、幸福に思っています…。
キノシタは最後にそう訳して伝えてくれた。
国として、団体の中の一人ではなく、個人として彼女に繋がれた事に私は喜びを感じた。そして少女の異邦人に差別を行わない柔軟さと強かさに、この国、日本の未来に希望を見出だせた気がした。
「ミスターシモン」
少女が帰ってから、キノシタは眉根をよせて話しかけてきた。僕はグラスに水を注ぎながらなんだい、と聞き返す。
「今回の事、このままにしておいて良いのですか!?コウダシュウイチはあんな小娘の為に貴方を危険にさらしたのですよ!」
聞きながら水を飲み下す。私は彼の言い方に不快感を抱いた。
キノシタは訴えるかのように話している。私は彼の言葉はあまり聞かず、その表情だけを横目に見た。どこか嬉しがっているようだった。高揚が隠しきれていないのだ。
もしも私がこの事を問題にしたら日本に不利な状況になり、ただでさえ危うい事態が更に悪化することは明白である。どうやら彼はシュウの足を引っ張ろうとしているようだ。日本国内の派閥争いや小競り合いに興味が無いわけでは無いが、私には正直そんなことはどうでも良い。
水を一気にあおるとグラスをテーブルに置き、私はキノシタの言葉を遮って言った。
「私はシュウの決断を誇りに思っているよ」
キノシタは話すのを止めた。
私は少女の会話を思い返し、出来事を整理してみた。
シュウは確かに、一人の少女の為に私を利用した。『異国人』で『来賓』で『友人』の私を使って『日本人』で『身分の低い』『見ず知らず』の少女を助けた。話を聞いていて、最初私はシュウに売られたのかと思った。シュウにとって私は疎ましい存在なのかとさえ悩んだ。
しかしシュウの行動はあまりにも無謀すぎるのだ。
若しも、石を投げつけられたのが私でなかったら、親日家で無かったならば国際問題にも発展していたかもしれない。
そしてシュウにそれが解らない訳がない。
つまり、彼は私を見込んで、私だから、私をよく知っているからあの様な策に出たのだ。
私を信じて。
「――全く、食えん男だよ」
前にも言ったが、私が石をぶつけられるのは一瞬でも、もしそれが無かったら少女が苛められるのは随分長くなっていたかもしれない。彼の行動は特に彼にとって非合理なのだ。
きっと私が怒らない事も見越しているんじゃないかなぁ?そう笑うとキノシタは黙ったまま俯いた。
「キノシタ、……私はおためごかしはあまり好きじゃないよ」
加えてそう言うとキノシタの耳がうっすらと紅潮した。その反応を見て、この人も悪い奴じゃ無いんだよなぁ、と私は苦笑した。
ねぇ……だから、シュウ。
君はそんなに気負わなくて良いんだ。罪悪感なんて感じないで良いんだよ。
別れの時、涙を流しながら日本語で何かを訴える彼を前に、私はそう思っていた。随分長くここには留まったから、拾えた単語からシュウが紅葉狩りの時の出来事を詫びているのは何となく知れた。ちょっと読みが外れたかな、やっぱり彼は真面目過ぎる。
「知ってるよ」
小さな声で、しかも汽笛の音が暴れる中で言ったのにちゃんと届いたみたいだ。呆然自失といった風にシュウは私を見た。
人間ってのはスゴいね。というか、国とか人種とか私たちが勝手に決めつけちゃってるだけでやっぱり人間は人間で一つなんだ、きっと。だからこうして伝わっちゃうんだよ。
この国はちょっと寒いし、私はそろそろ行くことにするよ。
「それじゃあまたね!!」
「もし、君に不利益が生じたならば、この人に石を投げなさい」
お侍様は私に向かってそう仰いました。『この人』というのは貴方の事を指していました。
私はどうして彼が私にそう命じたのか解らず、戸惑ってお返事が出来ませんでした。そんな私にお侍様は焦れた様子で、君の為なんだと仰いました。
「諸事情あって、私は君を殴ることになるかもしれない。少しの間、辛いことがあると思う。でも信じてくれ」
お侍様の目は真剣でした。
そして不意にお侍様の視線が私から外されました。
「! くそっ」
私もつられて彼の視線を追いました。――私の村の子が駆けていくのが見えました。
お侍様は私を振り返ると念を押すようにもう一度仰いました。
「いいね、石を投げるんだ…」
◆
「本当にそう、彼は言ったのかい?」
私はあの時の少女に、キノシタを通して尋ねた。少女はそれに答えてこくり、と頷く。キノシタは話を間で聞いて、眉をひそめて何か考えている様だった。
そうだったのか、と私はぼそりと呟いた。
今日、私はシュウには休みと言って追い払い、内緒でキノシタ――彼もまた政府の者だ――に通訳を頼み少女に謝罪をしていた。私があの村に足を運ぶとまた厄介事を起こしてしまいそうだったので、人に頼んで彼女を私の住まわせて貰っている家に連れてきて貰ったのだった。
彼女はいつかの様に、むしろそれ以上に怯えた様子で、しかし私の質問にしっかりと答えてくれた。
事の子細を聞いて、漸く私は合点がいった。
シュウがあの時――私が石礫を投げつけられた時、あんなに辛そうにしていた事が私は引っ掛かっていたのだ。どう考えても、あれは何かを背負い込んでしまった者が浮かべる表情だった。
その後私と話している時も、古傷の痛みに耐えるような表情を度々浮かべていた。それも、私の疑問が助長された理由だった。
全く…と自然にため息が出た。自己嫌悪にも陥った。私は、私が好き勝手やらかした後処理を知らないとはいえ全てシュウに押し付けてしまっていたのだ。先生気取りで暢気なことだ。
私は少女に向き直ると今度は自分の口で謝った。
「すみませんでシタ」
ぺこりと頭を下げる。
少女ははっとした顔をして、目を見開いた。彼女の瞳から、ぽろぽろと涙が溢れた。
突然の事に私が焦っていると、少女が逆に言った。
――謝るのは私の方です。
――村の人に疎まれるのが恐ろしくて、貴方と出会った事を憎んで、石を投げてしまいました。
――本当になんと謝れば良いか…!
尚泣き続ける少女に、私はいつの間にか手を伸ばしてその頭を撫でていた。
少女は少し震え、暫く固まっていたが、またぽろぽろと涙を溢して静かに泣いた。
しかし次の瞬間、彼女はぐうと歯を食いしばると私を真っ直ぐに見上げた。
――今は、貴方に出会えた事、幸福に思っています…。
キノシタは最後にそう訳して伝えてくれた。
国として、団体の中の一人ではなく、個人として彼女に繋がれた事に私は喜びを感じた。そして少女の異邦人に差別を行わない柔軟さと強かさに、この国、日本の未来に希望を見出だせた気がした。
「ミスターシモン」
少女が帰ってから、キノシタは眉根をよせて話しかけてきた。僕はグラスに水を注ぎながらなんだい、と聞き返す。
「今回の事、このままにしておいて良いのですか!?コウダシュウイチはあんな小娘の為に貴方を危険にさらしたのですよ!」
聞きながら水を飲み下す。私は彼の言い方に不快感を抱いた。
キノシタは訴えるかのように話している。私は彼の言葉はあまり聞かず、その表情だけを横目に見た。どこか嬉しがっているようだった。高揚が隠しきれていないのだ。
もしも私がこの事を問題にしたら日本に不利な状況になり、ただでさえ危うい事態が更に悪化することは明白である。どうやら彼はシュウの足を引っ張ろうとしているようだ。日本国内の派閥争いや小競り合いに興味が無いわけでは無いが、私には正直そんなことはどうでも良い。
水を一気にあおるとグラスをテーブルに置き、私はキノシタの言葉を遮って言った。
「私はシュウの決断を誇りに思っているよ」
キノシタは話すのを止めた。
私は少女の会話を思い返し、出来事を整理してみた。
シュウは確かに、一人の少女の為に私を利用した。『異国人』で『来賓』で『友人』の私を使って『日本人』で『身分の低い』『見ず知らず』の少女を助けた。話を聞いていて、最初私はシュウに売られたのかと思った。シュウにとって私は疎ましい存在なのかとさえ悩んだ。
しかしシュウの行動はあまりにも無謀すぎるのだ。
若しも、石を投げつけられたのが私でなかったら、親日家で無かったならば国際問題にも発展していたかもしれない。
そしてシュウにそれが解らない訳がない。
つまり、彼は私を見込んで、私だから、私をよく知っているからあの様な策に出たのだ。
私を信じて。
「――全く、食えん男だよ」
前にも言ったが、私が石をぶつけられるのは一瞬でも、もしそれが無かったら少女が苛められるのは随分長くなっていたかもしれない。彼の行動は特に彼にとって非合理なのだ。
きっと私が怒らない事も見越しているんじゃないかなぁ?そう笑うとキノシタは黙ったまま俯いた。
「キノシタ、……私はおためごかしはあまり好きじゃないよ」
加えてそう言うとキノシタの耳がうっすらと紅潮した。その反応を見て、この人も悪い奴じゃ無いんだよなぁ、と私は苦笑した。
ねぇ……だから、シュウ。
君はそんなに気負わなくて良いんだ。罪悪感なんて感じないで良いんだよ。
別れの時、涙を流しながら日本語で何かを訴える彼を前に、私はそう思っていた。随分長くここには留まったから、拾えた単語からシュウが紅葉狩りの時の出来事を詫びているのは何となく知れた。ちょっと読みが外れたかな、やっぱり彼は真面目過ぎる。
「知ってるよ」
小さな声で、しかも汽笛の音が暴れる中で言ったのにちゃんと届いたみたいだ。呆然自失といった風にシュウは私を見た。
人間ってのはスゴいね。というか、国とか人種とか私たちが勝手に決めつけちゃってるだけでやっぱり人間は人間で一つなんだ、きっと。だからこうして伝わっちゃうんだよ。
この国はちょっと寒いし、私はそろそろ行くことにするよ。
「それじゃあまたね!!」