梅千代の創作物の保管庫です。
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◆
「こん、どあほぉぉう!!馬鹿野郎!!つーか冷たッ!!しょっぺぇ!!」
海に落下して数十秒後には僕は水面から顔を出していた。武は僕の耳元で散々悪態をついていて、正直煩い。
僕が海に沈んだ直後に武も慌てて飛び込んだらしい。武の左手は僕の右腕をガッチリと掴んでいて、反対側の手はテトラポッドにしがみついている。
僕は極力事も無げに言った。
「おかげで涼しくなったね」
「ああ、そうやな…って馬鹿!」
武はやっぱりがなる。しかし、彼は次の瞬間脱力したように、はぁー、と深いため息を吐いた。
「びっくりした…」
武がどこか辛そうに言うから、俺は小さくごめんと謝った。
「あはは、暑かったからつい…」
なんて、僕は嘯いた。武が、僕の嘘に気付かない事を…気付いても見逃してくれる事を信じた。
武はじっと、僕を見たまま何も言わない。海から上がろうともせず、ただ波に小さく揺られているだけだ。僕は決まりが悪くなって武から目を逸らした。
「嘘だな」
武は容赦なかった。観念して、僕は頷いた。
「…………………ああ」
それからお互い、何も言わずにテトラポッドをよじ登った。
登りきると、武は無言で釣り道具の片付けを始めた。僕も何も言えず、武の行動に従った。釣った魚は海へと放った。
片付けが済むとどちらともなく帰路についた。靴の中が歩く度にぐじゅりぐじゅりと音を立てて不快だ。アスファルトには点々と僕と武が歩いた後が黒光りしていた。服も肌も、しょっぱくてベトベトしている。
重苦しい雰囲気が、僕と武の間に流れていた。
「失格だ」
先に口を開いたのは武だった。
「全然あかん」
「……何が?」
話の流れが解らず、僕は武に訊ねた。武は僕の問いには答えず、話し始めた。
「彩月、気付いとるか?それビョーキやで」
「はァ?」
「五月病」
彩月が五月病とかただのギャグだな、と武は鼻で笑った。
鴎の声が喧しい。
僕は小さく溜め息を吐いた。自分でもなんとなく、そんな気はしていたのだ。しかし認めたくなくて、だから僕は肯定も否定もしなかった。そんな甘ったれた、病かどうかも怪しいモノに自分が陥っていると思うのが嫌だった。
ただちょっと疲れて、気分が良くないだけなんだ。それだけ、なんだ。
武は歩調を変える事もなく、前を向いてゆらりゆらりと歩きながら続けた。
「譲もそれやってん」
「! え」
「今のお前と同じ感じやな。辛気臭くって、鬱々しててな…」
まぁ、そんな事どうだってええな、と武は頭をガシガシ掻いた。
ほんの少し、武が隠し事をしている様な、そして自分が何か忘れてしまっている様な――気がした。
◆
それから、実家にいる間僕の側にはいつでも武がいた。ちょっと鬱陶しい位だったけれど、他の仲間は皆都会に出てしまっているしむしろ付き合ってくれる人間がいるのは良いことかもしれない。
朝起きると必ず武が家で朝食をかっ食らっていて、やれ釣りだのゲーセンだの俺を家から引きずり出す。家に帰る頃には僕はへとへとになっていて、夢も見ないでぐっすり眠る。
考えてみると僕は必然、武に因って非常にまともな生活サイクル(仕事を休んでいる事以外は)を送らされているのだった。
夕焼けの中ぷらぷらと、僕達は家に向かっていた。近くの寂れた商店街に出掛けた帰りだった。太陽のオレンジが少し目に痛い。
「なぁ、武」
「んぁ?なんだー」
明日、僕は東京に帰ることにしていた。今日で武と会うことも暫くなくなるだろう。
少し寂しくて、清々しい。
そう――清々しい。
いつの間にか僕を取り巻く憂鬱は薄くなっていて…。
「譲のことだけど」
尋ねようとして、武の周りの空気が固くなるのを肌で感じた。それは想定内の事だったので僕は構わず続けた。
「何があったのか教えてくれないか」
武が急に足を止めたので僕も立ち止まった。
少し見上げると武が痛そうな顔をしてこっちを見ていた。
ゆっくり、武の口が動く。
「言わな、あかんか」
僕は迷った。
世の中には触れてはいけない話というのが少なからず存在する。譲の、五月病…の話もその一つなんだろう。
でも、僕だって譲の友人だった訳だし、知りたがっても罪にはならないと思う。
僕は少し武のことを考えて、出来れば、と言った。逃げ道を僅かに残した。
武は長いことじっと僕を見てきた。その視線に些か緊張してしまう。
武は最後に、はぁー、と長い長い溜め息を吐いて――話し始めた。
「譲は大学に入って、一ヶ月半位かな?してこっちに帰ってきた。やつれて、おどおどして、すぐ泣いた」
前までの彩月みたいに。
「俺はそれが異変やと思った。けどな、気付いてたんにも関わらず、俺は…譲をひどくけむたく感じた」
話し難かったんや。
「だから、俺、ゆうてもうたんや…………お前辛気臭い、鬱陶しいなぁって」
その夜、譲は自殺を図った。
僕は呆然とした。
それは、武のせい?たった一言の否定の言葉で、そんなアホな事を行動に移してしまう譲が悪いんじゃ。
いや。僕は考え直す。
譲は僕と同じ状態だった。もしくはそれ以上に悪化した状態だった。
そんな中に言葉が投げ込まれる。
お前辛気臭いなぁ。
お前、鬱陶しいなぁ。
軽くて、ぐさりと刺さってしまう。
僕はそれだけで自分の意味を完全に失ってしまうだろう。
「武……」
「俺が馬鹿だった」
ぎり、と武の右手がきつく握り締められた。
「俺は、お前らをずっと待っててやるって、いつまでも変わらへんでおると、そう言うたのに!」
武の言葉に聞き覚えがあった。ああ、あの遠く懐かしい夢。武が言おうとしてたのってこれだったんだ。
『俺がお前らの故郷になったるわ!』
皆でバカにした覚えがあるけれど、あれは武の決意だったんだろう。
涼しい風が海から吹いてきた。潮の薫り。僕の故郷の薫り。そしていつも、武からもその薫りはしている。
「……武は変わったよ」
呟くと武は泣きそうな顔になった。
「僕も変わったよ。この町も、東京にいる奴等も、皆変わってるんだ。変わらないものなんて無いんだ。変わるのは、悪いことじゃないんだ」
僕は武の肩を叩いた。
「僕を『監視』してたのは、譲の事があったからだね」
「――気付かれてたか」
「バレバレ」
笑みが浮かんだ。
武はずっと僕の側にいて、僕が滅多な事を起こさないように見張っていたのだ。彼が放つ言葉はいつも軽薄という綿で柔らかく包まれて僕に届けられていた。全部、武の配慮だったのだろう。
僕は言う。
「僕はまだ少し辛い。何が原因かわからないまま辛い。生きていることが原因かもしれない」
「!」
武の顔がまた歪んだ。
「でも、僕は武に救われたんだ」
武はぱちぱち、まばたきをした。鳩が豆鉄砲をくらったよう、とでも言うのだろうか。
「だから良いんだ」
僕は僕にできる精一杯で笑った。
「大丈夫、良いんだよ武」
武の頬を伝った涙は、今まで見てきた中で一等綺麗だったと思う。きっと彼の中の後悔と贖罪の塊が溶けて流れ出したのだ。
明日、僕は都会に帰る。
嫌な仕事があるかもしれない。自分を無価値に感じる時があるかもしれない。死んでしまいたくなってしまうかもしれない。
でも大丈夫だ。
心の故郷はこの港町にあって、武に預けられているから。
―――――
ホウゲンッテナンデスカ
「こん、どあほぉぉう!!馬鹿野郎!!つーか冷たッ!!しょっぺぇ!!」
海に落下して数十秒後には僕は水面から顔を出していた。武は僕の耳元で散々悪態をついていて、正直煩い。
僕が海に沈んだ直後に武も慌てて飛び込んだらしい。武の左手は僕の右腕をガッチリと掴んでいて、反対側の手はテトラポッドにしがみついている。
僕は極力事も無げに言った。
「おかげで涼しくなったね」
「ああ、そうやな…って馬鹿!」
武はやっぱりがなる。しかし、彼は次の瞬間脱力したように、はぁー、と深いため息を吐いた。
「びっくりした…」
武がどこか辛そうに言うから、俺は小さくごめんと謝った。
「あはは、暑かったからつい…」
なんて、僕は嘯いた。武が、僕の嘘に気付かない事を…気付いても見逃してくれる事を信じた。
武はじっと、僕を見たまま何も言わない。海から上がろうともせず、ただ波に小さく揺られているだけだ。僕は決まりが悪くなって武から目を逸らした。
「嘘だな」
武は容赦なかった。観念して、僕は頷いた。
「…………………ああ」
それからお互い、何も言わずにテトラポッドをよじ登った。
登りきると、武は無言で釣り道具の片付けを始めた。僕も何も言えず、武の行動に従った。釣った魚は海へと放った。
片付けが済むとどちらともなく帰路についた。靴の中が歩く度にぐじゅりぐじゅりと音を立てて不快だ。アスファルトには点々と僕と武が歩いた後が黒光りしていた。服も肌も、しょっぱくてベトベトしている。
重苦しい雰囲気が、僕と武の間に流れていた。
「失格だ」
先に口を開いたのは武だった。
「全然あかん」
「……何が?」
話の流れが解らず、僕は武に訊ねた。武は僕の問いには答えず、話し始めた。
「彩月、気付いとるか?それビョーキやで」
「はァ?」
「五月病」
彩月が五月病とかただのギャグだな、と武は鼻で笑った。
鴎の声が喧しい。
僕は小さく溜め息を吐いた。自分でもなんとなく、そんな気はしていたのだ。しかし認めたくなくて、だから僕は肯定も否定もしなかった。そんな甘ったれた、病かどうかも怪しいモノに自分が陥っていると思うのが嫌だった。
ただちょっと疲れて、気分が良くないだけなんだ。それだけ、なんだ。
武は歩調を変える事もなく、前を向いてゆらりゆらりと歩きながら続けた。
「譲もそれやってん」
「! え」
「今のお前と同じ感じやな。辛気臭くって、鬱々しててな…」
まぁ、そんな事どうだってええな、と武は頭をガシガシ掻いた。
ほんの少し、武が隠し事をしている様な、そして自分が何か忘れてしまっている様な――気がした。
◆
それから、実家にいる間僕の側にはいつでも武がいた。ちょっと鬱陶しい位だったけれど、他の仲間は皆都会に出てしまっているしむしろ付き合ってくれる人間がいるのは良いことかもしれない。
朝起きると必ず武が家で朝食をかっ食らっていて、やれ釣りだのゲーセンだの俺を家から引きずり出す。家に帰る頃には僕はへとへとになっていて、夢も見ないでぐっすり眠る。
考えてみると僕は必然、武に因って非常にまともな生活サイクル(仕事を休んでいる事以外は)を送らされているのだった。
夕焼けの中ぷらぷらと、僕達は家に向かっていた。近くの寂れた商店街に出掛けた帰りだった。太陽のオレンジが少し目に痛い。
「なぁ、武」
「んぁ?なんだー」
明日、僕は東京に帰ることにしていた。今日で武と会うことも暫くなくなるだろう。
少し寂しくて、清々しい。
そう――清々しい。
いつの間にか僕を取り巻く憂鬱は薄くなっていて…。
「譲のことだけど」
尋ねようとして、武の周りの空気が固くなるのを肌で感じた。それは想定内の事だったので僕は構わず続けた。
「何があったのか教えてくれないか」
武が急に足を止めたので僕も立ち止まった。
少し見上げると武が痛そうな顔をしてこっちを見ていた。
ゆっくり、武の口が動く。
「言わな、あかんか」
僕は迷った。
世の中には触れてはいけない話というのが少なからず存在する。譲の、五月病…の話もその一つなんだろう。
でも、僕だって譲の友人だった訳だし、知りたがっても罪にはならないと思う。
僕は少し武のことを考えて、出来れば、と言った。逃げ道を僅かに残した。
武は長いことじっと僕を見てきた。その視線に些か緊張してしまう。
武は最後に、はぁー、と長い長い溜め息を吐いて――話し始めた。
「譲は大学に入って、一ヶ月半位かな?してこっちに帰ってきた。やつれて、おどおどして、すぐ泣いた」
前までの彩月みたいに。
「俺はそれが異変やと思った。けどな、気付いてたんにも関わらず、俺は…譲をひどくけむたく感じた」
話し難かったんや。
「だから、俺、ゆうてもうたんや…………お前辛気臭い、鬱陶しいなぁって」
その夜、譲は自殺を図った。
僕は呆然とした。
それは、武のせい?たった一言の否定の言葉で、そんなアホな事を行動に移してしまう譲が悪いんじゃ。
いや。僕は考え直す。
譲は僕と同じ状態だった。もしくはそれ以上に悪化した状態だった。
そんな中に言葉が投げ込まれる。
お前辛気臭いなぁ。
お前、鬱陶しいなぁ。
軽くて、ぐさりと刺さってしまう。
僕はそれだけで自分の意味を完全に失ってしまうだろう。
「武……」
「俺が馬鹿だった」
ぎり、と武の右手がきつく握り締められた。
「俺は、お前らをずっと待っててやるって、いつまでも変わらへんでおると、そう言うたのに!」
武の言葉に聞き覚えがあった。ああ、あの遠く懐かしい夢。武が言おうとしてたのってこれだったんだ。
『俺がお前らの故郷になったるわ!』
皆でバカにした覚えがあるけれど、あれは武の決意だったんだろう。
涼しい風が海から吹いてきた。潮の薫り。僕の故郷の薫り。そしていつも、武からもその薫りはしている。
「……武は変わったよ」
呟くと武は泣きそうな顔になった。
「僕も変わったよ。この町も、東京にいる奴等も、皆変わってるんだ。変わらないものなんて無いんだ。変わるのは、悪いことじゃないんだ」
僕は武の肩を叩いた。
「僕を『監視』してたのは、譲の事があったからだね」
「――気付かれてたか」
「バレバレ」
笑みが浮かんだ。
武はずっと僕の側にいて、僕が滅多な事を起こさないように見張っていたのだ。彼が放つ言葉はいつも軽薄という綿で柔らかく包まれて僕に届けられていた。全部、武の配慮だったのだろう。
僕は言う。
「僕はまだ少し辛い。何が原因かわからないまま辛い。生きていることが原因かもしれない」
「!」
武の顔がまた歪んだ。
「でも、僕は武に救われたんだ」
武はぱちぱち、まばたきをした。鳩が豆鉄砲をくらったよう、とでも言うのだろうか。
「だから良いんだ」
僕は僕にできる精一杯で笑った。
「大丈夫、良いんだよ武」
武の頬を伝った涙は、今まで見てきた中で一等綺麗だったと思う。きっと彼の中の後悔と贖罪の塊が溶けて流れ出したのだ。
明日、僕は都会に帰る。
嫌な仕事があるかもしれない。自分を無価値に感じる時があるかもしれない。死んでしまいたくなってしまうかもしれない。
でも大丈夫だ。
心の故郷はこの港町にあって、武に預けられているから。
―――――
ホウゲンッテナンデスカ
◆
昼休みの教室は閑散としていた。元々生徒数が少ない上、他の場所に移動する奴らもいるからだろう。
開け放たれた窓からは若葉の薫りを含んだ空気が流れ込んでいた。留められてないカーテンが風に靡くのを見ると、どこかさっぱりした風に感じられた。
「さーつきちゃーん」
呼ばれて我に返り、振り向いた。僕はいつものメンツと一緒に昼食を摂っている最中だった。
ちゃんづけすんな!と憤ってみせるとけらけらと笑いが起きた。
「……そういえばさぁ、」
切り出したのは譲だった。
「皆進路どないすん?」
高三の初夏といったら流石に本格的に進路を決め始める時期だ。僕は特に隠すことはせず、素直に答えた。
「僕は東京の大学目指すかなぁ。こんなしょっぱい田舎いややわ」
「マジで!?俺も彩月と一緒やで」
続けて譲が言った。
「同じく、俺も譲と彩月と一緒ー」
他の一人も続く。
にしては何もやってねぇけど、と皆でバカ笑いした。
そんな中、武はむう、と少し不機嫌そうな顔をしていた。
「武、どないしたん?」
譲が気をつかって、武に尋ねた。
「しょっぱい港町の何処が悪いんや」
武はぶーたれて言った。武の家は代々漁師だって事を僕は思い出した。
「武は地元好きすぎやわ」
「頑張れ少数派ぁー」
譲は呆れた様に武に言った。続けて僕も野次を飛ばした。
瞬間だった。
どろり、と。
「!?」
僕の側にいた譲の輪郭が歪んで、熔けて、引き延ばされていった。
譲だけじゃない。他の奴等も、教室も、窓の風景もずるずるになって、ケロイドみたいにひきつっていった。
恐怖だけが溢れ、声が出ない。
そんな中、武だけが武のままだった。
歪んだ背景の中で武はむくれていたが、ふぅと短く溜め息を吐いた。そしてまた口を開いて、
「じゃー俺は
◆
「彩月!!いつまで寝てるの!!」
懐かしい夢とその延長線上にあった悪夢は母の少々ヒステリックなモーニングコールで遮断された。
僕は無言のまま、むっつりしながら体を起こした。部屋の入り口はばーんと開け放たれていて、そこに母が仁王立ちしていた。
「もー、いきなり帰ってきたと思えばぐぅたらぐぅたら…。朝御飯できてるから。片付かなくて迷惑なの!早く顔洗って下に来なさいッ」
ぶつぶつと小言をこぼして、母は去っていった。
僕ははぁー、と今年何十回目かの溜め息を吐いて、頭を掻いた。正直朝が一番しんどいのだ。全く宜しくない。
しかし母にまたがなられるのも癪だ。僕は何とか体を起こし顔を洗ってよろよろとリビングへと向かった。
階段を下りて、リビングの引き戸を開けてギョッとした。
「よっ」
うちの食卓に堂々と武が座っていた。
「えっ、ちょ…なんで?」
しかも朝食を摂っている。状況を掴めぬまま、僕も椅子に座った。
武はぶぅ、と大分不機嫌そうに言う。
「いやいや、何でもくそもあらへんがな。今日遊びに行くって約束しとったやろ?」
言い終わると武はずずー、と味噌汁を啜った。
………あれ?
「そんな約束してたっけ?」
「えええ!!ゆったやん!!」
武は心底びっくり、という顔をしてからむくれた。
「ほら、車乗せたとき!明後日暇だからどっか行こうって」
僕はうぬぬぬと、過去の記憶を掘り返した。
『彩月いつでも暇だよな?俺明後日オフじゃけぇ、釣りにでもいかへん?』
「…あ。うわ、ごめん忘れてた!!」
「ほらぁー!!俺ずっと待ち合わせ場所で待っとったんやで!?朝食位頂かんと割りがあわへんわー」
武は僕の前にあった焼き魚の皿をとっていってしまった。
「文句言えねぇ…」
さらば、焼き魚…。あんまり未練は無いけども。
「飯食ったらはよう着替えたってなー」
僕の焼き魚を解体しながら武は言った。流石海の子、箸さばきに無駄がない。うーっす、と答えて僕は食事を幾らか摂ると自室に戻った。
「ったくもう、最悪…」
部屋に戻ってすぐに自分の物忘れの激しさに僕は落胆した。何で思い出さなかったんだろう、これじゃあボケ老人みたいじゃないか。
そういえば仕事でも。
また瞳が少し潤んだが、何とか堪えて僕は着替えを済ませた。
◆
「いやぁ、今日もええ日和やんなぁ」
武曰く絶好の釣りスポットに着くと武はうーん、と伸びをした。
確かに、空には雲一つなく、澄んだ蒼が広がっていた。緩い曲線を描く水平線の端々には島がぽつりぽつり見える。陸からの風は穏やかで、最高の釣り日和というやつだった。
またまた瞳が潤んできて、僕は目を瞑って息を調えた。
「この季節は何が獲れんの?」
普通な声を絞り出すようにして、僕は武に尋ねた。
「あー、この時期だとアジとかイサキとか?運が良いとクロダイが引っ掛かったり…」
「へぇ」
「でもここ入江やからな。もっと雑魚いのしか釣れへんで」
釣りの準備をテキパキと進めつつ、武は真面目に答えた。漁師見習いなだけあって、準備はすぐ済んだ。
テトラポットの上にそれぞれ座り込み、ぼーっと魚が餌に食いつくのを待つ。釣りって言うのは魚が掛かった時の一瞬の盛り上がりの為にやるもので、獲物が来るまでは言うまでもなく暇である。
たぷん、じゃぼぼ、なんて音をたてながら波は寄せては引いていく。足元のテトラポットの隙間からは真っ暗な海が覗いていた。
時間が経つにつれ、始めは喧しかった波の音にも耳が慣れて、僕は久方ぶりに心地好い気分になっていった。
初夏言えど日向は夏同然に暑かった。じわじわ浮いてくる汗が煩わしい。僕はちら、と武の方を見た。彼は涼しげにしていた。やっぱり見習いでも漁師は違うなぁ、と感じる。今日はタンクトップを着ているのでよくわかるが、武は以前に比べて随分とガッチリした体型になっていた。自分が以前にも増してもやし体型になったのがわかっているだけに少し悔しい。
「お、引いてる」
先に引きが来たのは僕だった。
リールをジリジリと引いていく。重みの分竿はしなり、益々期待で気持ちが高揚する。
適度に引いたところで、釣り上げる!
陽光を受けて魚が銀に輝いた。
ちくしょー負けた!!と武は心底悔しそうだ。見習いとはいえ一応漁師としてのプライドがあるのだろう。数じゃ負けへんで!と躍起になっている。
はは、と軽く笑って、僕は魚をバケツに放り投げた。すぐ釣り針に餌をつけ直して、それをまた海へと沈めた。
水面がきらきらと太陽の光を受けて耀く。波の音は止まることを知らない。
色んな意味で眩しい。都会にいても田舎にいても…どこにいても自分がちっぽけで、浮いている様に感じるのは変わり無い。
ただ、都会の狭苦しさは圧迫と閉塞に過ぎなかったが、田舎の雄大な自然と言うのは、逆に僕の存在の輪郭をぶれさせた。まるで、あの、奇妙な夢の様に。ぐちゃぐちゃになってますます、自分の意味を喪失させる。
ああ、 疲れたなぁ。
「彩月?」
怪訝そうな顔で武は僕の方を見た。僕は何でもねぇよ、と答えたけれど、心の中で何かが――繋ぐべきでない何かが、繋がり始めていた。
疲れた。
面倒臭い。
だるい。
窒息しそうだ。
苦しい。
辛い。
それが繰り返し、繰り返す。マイナスな感情だけが連鎖し繋がっていく。長くなったそれはゆるく首にまとわりついて行くようだ。
少しずつ締め上げられていく。
その恐怖・絶望・倦怠感から解放されたくて、わかった。わかってしまった。
随分前から、僕は消えたかったんだ。
思うが早いか、僕の体は勝手に傾いで、海へと吸い込まれていった。
たぽん、こぽこぽと脳内に響く海の音の中に武の声が混じって聞こえていた。
昼休みの教室は閑散としていた。元々生徒数が少ない上、他の場所に移動する奴らもいるからだろう。
開け放たれた窓からは若葉の薫りを含んだ空気が流れ込んでいた。留められてないカーテンが風に靡くのを見ると、どこかさっぱりした風に感じられた。
「さーつきちゃーん」
呼ばれて我に返り、振り向いた。僕はいつものメンツと一緒に昼食を摂っている最中だった。
ちゃんづけすんな!と憤ってみせるとけらけらと笑いが起きた。
「……そういえばさぁ、」
切り出したのは譲だった。
「皆進路どないすん?」
高三の初夏といったら流石に本格的に進路を決め始める時期だ。僕は特に隠すことはせず、素直に答えた。
「僕は東京の大学目指すかなぁ。こんなしょっぱい田舎いややわ」
「マジで!?俺も彩月と一緒やで」
続けて譲が言った。
「同じく、俺も譲と彩月と一緒ー」
他の一人も続く。
にしては何もやってねぇけど、と皆でバカ笑いした。
そんな中、武はむう、と少し不機嫌そうな顔をしていた。
「武、どないしたん?」
譲が気をつかって、武に尋ねた。
「しょっぱい港町の何処が悪いんや」
武はぶーたれて言った。武の家は代々漁師だって事を僕は思い出した。
「武は地元好きすぎやわ」
「頑張れ少数派ぁー」
譲は呆れた様に武に言った。続けて僕も野次を飛ばした。
瞬間だった。
どろり、と。
「!?」
僕の側にいた譲の輪郭が歪んで、熔けて、引き延ばされていった。
譲だけじゃない。他の奴等も、教室も、窓の風景もずるずるになって、ケロイドみたいにひきつっていった。
恐怖だけが溢れ、声が出ない。
そんな中、武だけが武のままだった。
歪んだ背景の中で武はむくれていたが、ふぅと短く溜め息を吐いた。そしてまた口を開いて、
「じゃー俺は
◆
「彩月!!いつまで寝てるの!!」
懐かしい夢とその延長線上にあった悪夢は母の少々ヒステリックなモーニングコールで遮断された。
僕は無言のまま、むっつりしながら体を起こした。部屋の入り口はばーんと開け放たれていて、そこに母が仁王立ちしていた。
「もー、いきなり帰ってきたと思えばぐぅたらぐぅたら…。朝御飯できてるから。片付かなくて迷惑なの!早く顔洗って下に来なさいッ」
ぶつぶつと小言をこぼして、母は去っていった。
僕ははぁー、と今年何十回目かの溜め息を吐いて、頭を掻いた。正直朝が一番しんどいのだ。全く宜しくない。
しかし母にまたがなられるのも癪だ。僕は何とか体を起こし顔を洗ってよろよろとリビングへと向かった。
階段を下りて、リビングの引き戸を開けてギョッとした。
「よっ」
うちの食卓に堂々と武が座っていた。
「えっ、ちょ…なんで?」
しかも朝食を摂っている。状況を掴めぬまま、僕も椅子に座った。
武はぶぅ、と大分不機嫌そうに言う。
「いやいや、何でもくそもあらへんがな。今日遊びに行くって約束しとったやろ?」
言い終わると武はずずー、と味噌汁を啜った。
………あれ?
「そんな約束してたっけ?」
「えええ!!ゆったやん!!」
武は心底びっくり、という顔をしてからむくれた。
「ほら、車乗せたとき!明後日暇だからどっか行こうって」
僕はうぬぬぬと、過去の記憶を掘り返した。
『彩月いつでも暇だよな?俺明後日オフじゃけぇ、釣りにでもいかへん?』
「…あ。うわ、ごめん忘れてた!!」
「ほらぁー!!俺ずっと待ち合わせ場所で待っとったんやで!?朝食位頂かんと割りがあわへんわー」
武は僕の前にあった焼き魚の皿をとっていってしまった。
「文句言えねぇ…」
さらば、焼き魚…。あんまり未練は無いけども。
「飯食ったらはよう着替えたってなー」
僕の焼き魚を解体しながら武は言った。流石海の子、箸さばきに無駄がない。うーっす、と答えて僕は食事を幾らか摂ると自室に戻った。
「ったくもう、最悪…」
部屋に戻ってすぐに自分の物忘れの激しさに僕は落胆した。何で思い出さなかったんだろう、これじゃあボケ老人みたいじゃないか。
そういえば仕事でも。
また瞳が少し潤んだが、何とか堪えて僕は着替えを済ませた。
◆
「いやぁ、今日もええ日和やんなぁ」
武曰く絶好の釣りスポットに着くと武はうーん、と伸びをした。
確かに、空には雲一つなく、澄んだ蒼が広がっていた。緩い曲線を描く水平線の端々には島がぽつりぽつり見える。陸からの風は穏やかで、最高の釣り日和というやつだった。
またまた瞳が潤んできて、僕は目を瞑って息を調えた。
「この季節は何が獲れんの?」
普通な声を絞り出すようにして、僕は武に尋ねた。
「あー、この時期だとアジとかイサキとか?運が良いとクロダイが引っ掛かったり…」
「へぇ」
「でもここ入江やからな。もっと雑魚いのしか釣れへんで」
釣りの準備をテキパキと進めつつ、武は真面目に答えた。漁師見習いなだけあって、準備はすぐ済んだ。
テトラポットの上にそれぞれ座り込み、ぼーっと魚が餌に食いつくのを待つ。釣りって言うのは魚が掛かった時の一瞬の盛り上がりの為にやるもので、獲物が来るまでは言うまでもなく暇である。
たぷん、じゃぼぼ、なんて音をたてながら波は寄せては引いていく。足元のテトラポットの隙間からは真っ暗な海が覗いていた。
時間が経つにつれ、始めは喧しかった波の音にも耳が慣れて、僕は久方ぶりに心地好い気分になっていった。
初夏言えど日向は夏同然に暑かった。じわじわ浮いてくる汗が煩わしい。僕はちら、と武の方を見た。彼は涼しげにしていた。やっぱり見習いでも漁師は違うなぁ、と感じる。今日はタンクトップを着ているのでよくわかるが、武は以前に比べて随分とガッチリした体型になっていた。自分が以前にも増してもやし体型になったのがわかっているだけに少し悔しい。
「お、引いてる」
先に引きが来たのは僕だった。
リールをジリジリと引いていく。重みの分竿はしなり、益々期待で気持ちが高揚する。
適度に引いたところで、釣り上げる!
陽光を受けて魚が銀に輝いた。
ちくしょー負けた!!と武は心底悔しそうだ。見習いとはいえ一応漁師としてのプライドがあるのだろう。数じゃ負けへんで!と躍起になっている。
はは、と軽く笑って、僕は魚をバケツに放り投げた。すぐ釣り針に餌をつけ直して、それをまた海へと沈めた。
水面がきらきらと太陽の光を受けて耀く。波の音は止まることを知らない。
色んな意味で眩しい。都会にいても田舎にいても…どこにいても自分がちっぽけで、浮いている様に感じるのは変わり無い。
ただ、都会の狭苦しさは圧迫と閉塞に過ぎなかったが、田舎の雄大な自然と言うのは、逆に僕の存在の輪郭をぶれさせた。まるで、あの、奇妙な夢の様に。ぐちゃぐちゃになってますます、自分の意味を喪失させる。
ああ、 疲れたなぁ。
「彩月?」
怪訝そうな顔で武は僕の方を見た。僕は何でもねぇよ、と答えたけれど、心の中で何かが――繋ぐべきでない何かが、繋がり始めていた。
疲れた。
面倒臭い。
だるい。
窒息しそうだ。
苦しい。
辛い。
それが繰り返し、繰り返す。マイナスな感情だけが連鎖し繋がっていく。長くなったそれはゆるく首にまとわりついて行くようだ。
少しずつ締め上げられていく。
その恐怖・絶望・倦怠感から解放されたくて、わかった。わかってしまった。
随分前から、僕は消えたかったんだ。
思うが早いか、僕の体は勝手に傾いで、海へと吸い込まれていった。
たぽん、こぽこぽと脳内に響く海の音の中に武の声が混じって聞こえていた。